


勇気は、波動していきます。また、学会員の前向きで元気な、生き生きとした挑戦の姿は、仏法の力の証明になります。

しかし、実際に会合にも出られない、同志にも会えないとなると、寂しくてしかたがなくなる。そういう実例はいっぱいある。

その信力・行力に燃えたつ人が、地域に一人、また一人と増えていく時、目には見えなくとも、偉大なる仏力・法力の働きを引き出し、大勢の人々をも守りゆくことができる。

よきにつけ題目、悪しきにつけ題目を唱えに唱えきっていく。自己の使命に生きながら、南無妙法蓮華経を自らも唱え、他にもすすめ、修行しきっていった時には、自身の生命の「我」は妙法に染め抜かれて、三世永遠に大宇宙の「仏界」と一体になっていく。

祈れば、福運を積めます。大生命力が涌現し、智慧が湧きます。そして、その智慧を絞り抜き、考えに考えて、果敢に行動を起こしていくんです。ただ祈ってさえいれば、どこからか、いい仕事が降って湧くように思っているのは間違いです。

理論や理屈によるというよりも、ほとんどの方は、身近な学会員の姿を見、真心に触れて入信してくる。 「学会の人は話し方がすがすがしい。思いやりが深い。誠実である」 「学会には、素晴らしい音楽、文化がある」

人は決して指導を受けただけでは、信心の成長を図れないということです。そのためには、体験を積んでいくことが大事です。

自分の慢心に打ち勝った人のみが、人生の凱歌の記録を残すことができるのである。 すなわち彼は絶対に「もうこれでいい」という慢心には陥らなかった。
