


宿命転換への強い祈りがあるとき、因果倶時で、生命の濁りが消えていく。

題目を聞いて、他の人まで「随喜」する。そのようなさわやかな唱題の声でありたい。

日蓮大聖人の仏法では、宇宙の本源の「法」を「本尊」とする。それは自分自身の生命の根源「法」でもある。ちょっと難しいが、「墳智冥合」といって、拝む対象の「墳」と、拝む側の「一念」である「智」が奥深く合一していく。つまり、宇宙の究極の「法」と自分の「一念」が合体して、祈りとなる。

だが、忘れていけないことは、その根底をなすものが、あくまでも信心であり、折伏というあるということです。 折伏精神こそ、一切の勝利の源泉であるという定義を確認していただきたい。

そのうち、どれだけ自分は広宣流布のことを思ったか、御本尊のことを思ったか、学会のことを、同志のことを思ったか、行動したか、行動しなかったか。 その差し引き、プラスマイナスの総合点で、自分の境涯が決まってくる。

他の人の仏界涌現を手伝っていくのが仏道修行です。

「もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」

広布の戦いでは「強い信心」こそ最高の「兵法」なのだよ。大きなカベにつき当たったり、いざ難題に取り組もうとする時、つい「策」や「方法」に走ってしまう。 まず「法華経の兵法」だ、と腹を決めること
