
池田先生ご指導


私たちが大御本尊に唱題・祈願するとき、祈りの強弱、宿命の浅深によって、その祈りと功徳の現れ方が四つの場合に分けられる。

学会員は「仏子」であるゆえに、「その学会員を、ほめれば、自分が功徳を受ける。自分の仏界が強まる。相手を、ほめているようでいて、実は、かえって、自分の仏界をも賛嘆しているのである」と。他人を励ませば、自分も励まされる。

題目は、無明断破の利剣であります。悩みをことごとく断破し、転回させていく利剣である。元品の無明といえども断破可能な大利剣が題目である。

御本尊は大聖人の御命であり、われわれの生命であることを深く堀りさげて知るときに、この確信がでるのである。大御本尊と一致の境涯の大根幹は、強力な信心であって、この信心によって、毎日の行は励まされてくるのである。

職場にあっても、学校にあっても、いかなる舞台にあっても、またどんなときでも、奥底の一念である、毎時作是念は、御本尊にあり、また広宣流布になくてはならない。

座談会を中心とする創価の会合は、法華経に完壁に則り、御書に寸分違わぬ「仏の会座」である。これほど尊極の集いはない。法華経の随喜功徳品に説かれる通り、妙法の会合へ「共に行こう」と誘う功徳も、

よく考えてみると、言語というものはおもしろいもので、宇宙といい、我といい、そのほか永遠、全体、変化、運動、美醜、善悪等々、ただ一言によって、なにごとかの全体を表現することはいくらでもあります。

師の意図が、脈動となって弟子の五体をめぐり、それが自発能動の実践の姿をとる時、初めて師弟不二の道を、かろうじて全うすることができる。師弟に通い合う生命の脈動こそ、不二たらしめる原動力である。
