
戸田先生ご指導


信心とは、御本尊様をいただくということで、仏になる木を植えたことであり、目には見えぬが、この五体を、諸天善神が、夜となく昼となく、懸命に守っているのです。

また、「雑念がわいて題目に集中できない」といって、自分を責める必要もない。 祈っている時に浮かんでくることは、その時の自分にとっての問題なんだから、ありのままの自分をぶつけていけばいいんです。

まァ、聞きなさい。人間、誰でもいつか死ぬものだ。私は死んだら、大聖人のところへ還って御挨拶をする。そこで、叱られるか褒められるかはわからんが、七日たてばまた戻ってくる。

御本尊様のことについて一言申し上げます。私はただいま観心本尊抄の講義を書いておりますが、つくづくと偉大な日蓮大聖人様のお徳に、ただただ、頭が下がるばかりであります。

「あなたの愚痴の心が、あなたのすべてを不幸にっしてしまっている」と指摘された。そして、愚痴に負けている弱々しい自分自身こそ、力強く蘇生するように促されたのである。

たったひとつの理論をいいます。三越へいくと、欲しい物がいっぱいある。ところが、金がなければひとつも売ってくれません。

われわれの生命というものは、大宇宙に溶け込むのです。それなら、そのままではいいではないか。しかし、出てくる。それなら、出てきたときに、その生命の運勢がよくなるために、信心したらいいではないか。それは、うそです。

「自己の職業に、人一倍打ち込もうともせず、ただ漠然として、信心していけば功徳があらわれて、なんとか成功するであろう、などと考えるのは、これは大いなる誤りである」
