戸田先生ご指導

御本尊様のことについて一言申し上げます。私はただいま観心本尊抄の講義を書いておりますが、つくづくと偉大な日蓮大聖人様のお徳に、ただただ、頭が下がるばかりであります。

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御本尊様のことについて一言申し上げます。私はただいま観心本尊抄の講義を書いておりますが、つくづくと偉大な日蓮大聖人様のお徳に、ただただ、頭が下がるばかりであります。
たとえていいますれば、あのレントゲンとかエックス光線とかいうようなもの、ああいうもので病気の治療をするときに、われわれはなにも不思議に思わないで、これにかかればよいのだとか、こういうふうに、ただ目に見えないものを信じている。それはなぜかというと、この西洋の機械文化、あるいは物理にもせよ、化学にもせよ、そういう科学がわれわれの頭にしみこんでおりますから「ああ、そうか」と納得するのであり、不思議に思わないのです。
もし、いま、外国の機械でもって、あるいは医学、あるいは科学の力によって、ここに一つの機械ができたとするのです。この機械をいまの科学的ないろいろなことばで説明した結論において、これをじょうずに使えば、かならず人生が幸福になるということになったとするのです。そうすると、その機械は、ずいぶん高く売れやすいかと思うのですが、どうでしょうか。この機械を一台もってきて、そうして、じょうずに使うのです。技術的なめんどうさもありましょう。じょうずに使えば、かならず幸福になるから。さあ、えらい会社ができますよ。ずいぶんもうかる。一台十万ぐらいで売れます。なんとか借金してしまえば、幸福になるから、みな買う。
こうした機械は、とうてい、いまの西洋の科学ではできておりません。絶対にできないのです。だが、日本の国には七百年前から、ちゃんと、こういう機械ができている。これが大御本尊様なのです。大聖人様がちゃんと、こういう機械をつくっておかれたのです。そうして、われわれ民衆にお与えくださった。
そして「自由に使えよ。金はいらないぞ」とおっしゃっているのに、さっぱり、いまの世間の人は、ちっとも使わない。というのは、この大御本尊様が、そういうりっぱなものであるという説明書がめんどうでわからないのであります。それは、日本国にほんとうの仏法哲学がなくなったことから起こっているのです。
しからば、とうぜん、朝鮮、中国、インドにあるか、それらの国には絶対これっぽっちもない。ただ、日本にのみ、その説明書がある。だが、それはみんなには読めない。ですから、私が読んだだけでは、皆さんも安心できんかもしれませんから「教学をやりなさい、教学をやりなさい」というのはそこなのです。教学がはっきりしてくると、その効能書がはっきり読める。読んでみれば、なんでもないのです。
あの御本尊様が、われわれの生活を幸福にしてくれるという絶対的な機械なのです。あの御本尊様に照らされて、一年、二年、三年と照らされてくると、しぜんのうちにわれわれは幸福をつかむことができるのです。あの御本尊様に照らされない民衆は、ちょうど霜にあっている草のようなものなのです。私は失礼ながら、大御本尊様から、われわれの幸福に対し、絶対の幸福を与えてくださるという理論だけは、断じて日本じゅうで、だれびとにもまけないで知っております。