【御書本文】
我等は法華経をたのみまいらせて候へばあさきふちに魚のすむが天くもりて雨のふらんとするを魚のよろこぶがごとし。(上野殿御返事p1565)
【通解】
われらは法華経を信じているから、浅い淵にすんでいる魚が、天が曇って雨が降ろうとするのを喜ぶようなものである
【先生の指導から】
今は難を受けて苦しんでいても、正しい信仰によって、必ず乗り越えていけると励ましておられるのである。
信仰は一切の勝利の源泉である。
水たまりのように浅い淵にすんでいる魚は、いつ水が枯れてしまうか、不安で不安で仕方がない。いな、そういう危険と隣り合わせであることも知らず、とりあえず、今を生きられればいいと思っているかもしれない。多くの場合、人間も同じである。
御本尊を持ち、信心に巡り合えたことは、水が枯れて死ぬかもしれない不安のところへ、まさに天の恵みの雨が降らんとするのを魚が喜ぶようなものなのである。
(中略)皆さまの人生の旅の途上に、いかなる苦しみ、悩みがあろうとも、それを全部、最後は「楽しみ」に変えていける。この極意が信心なのである。
また、これは、社会にあふれるさまざまな問題に目をつぶり、人々の苦悩から遊離して、自分たちだけが幸福になるという利己主義的な生き方を教えているのではない。いかなる社会的な試練、外的な不幸の嵐が襲ってきても微動だにしない、金剛不壊なる自分自身を確立していくのが信心だということだ。