「広宣流布」を口にする人は少なくない。
「広宣流布」を語る人は少ない。
「広宣流布」に徹する人になりたい。
学部時代、勉強やサークル活動等、「何でも広宣流布につながる」という人が何人もいました。
たしかに、そういえる面もあるかもしれない。なぜなら、広宣流布は、社会のあらゆる領域で仏法を持つ人々が人間革命しつつ、進めていくものだと考えるからです。
しかし、折伏が広宣流布の本質的な要素であることは間違いない。それは、「広く宣べ、流布する」対象が御本尊であり、題目であることから明らかです。
では、折伏以外の行動は「何でも広宣流布につながる」のかどうか。
僕は、当たり前ですが、「一念」に着目したい。特に、その行動が「何のためか」という点です。
単に自己の欲望を満たすための行動が広宣流布につながるはずもない。「自己実現」などという言葉に言い換えてみても、それは変わらない。
何のための「行動」か、何のための「自己実現」か。
それが、「自身の幸福のためだけ」であれば、広宣流布へはつながらない。
「自他共の幸福のため」
「広宣流布のため」
「人間革命のため」
その一念に立って、行動するとき、「何でも広宣流布につながる」。
その一念は、朝晩の勤行・唱題の中で生まれ、勇気となり、智慧となり、慈悲となって、現実の行動――なかんずく人との対話が生まれる。広宣流布の前進となる。
そうして行動する中で、広宣流布への一念は、確固たる誓願に昇華されていくと思います。