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池田先生ご指導

大聖人の仏法の肝要は、形式ではない。「心」である。「信心」が根本である。そして御本尊を信じて、「唱題」する修行に、すべての修行が含まれていると、大聖人は仰せである。

大聖人の仏法の肝要は、形式ではない。「心」である。「信心」が根本である。そして御本尊を信じて、「唱題」する修行に、すべての修行が含まれていると、大聖人は仰せである。
そのたとえとして、わかりやすく次のように述べられている。
「日本の二字に六十六国の人畜財《にんちくざい》を摂尽《しょうじん》して一《ひとつ》も残さず」(御書341㌻)──日本という二文字に、日本66カ国の人、動物、財宝のすべてを収めつくしており、一つも残すものがない──と。
同様に、「南無妙法蓮華経」という題目に、法華経の一切が含まれているから、唱題行が、そのまま成仏の直道となる。それ以外の、形式にとらわれた修行は、枝葉《えだは》の修行であり、かえって信心を邪魔するものになってしまう。
さらに、この題目の深い意義がわからなくても、題目の功徳を、そのまま身に顕していくことができる、と教えてくださっている。それは、あたかも「小児乳を含むに其の味を知らざれども自然《じねん》に身を益《やく》す」(同㌻)── 子どもが母のお乳をすうのに、その味(中身)を知らなくても、自然に、その身に利益《りやく》を得る(成長していく)── のと同じである、と。
生まれたばかりの赤ちゃんのように、法門を理解していなくても、題目を疑わずに唱えていけば、自然と、題目の偉大な力を身につけていくことができる。大聖人の仏法は、〝民衆〟に開かれた〝民衆のための仏法〟なのである。
また「妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意《こころ》なるのみ」(御書342㌻)──妙法蓮華経の五字は、たんなる経文ではない。その意義でもない。ただ法華経全体の心である──ともおっしゃっているのである。
私たちの唱える題目は、法華経の心であり、根本的には大聖人の魂そのものなのである。
したがって、その意味がわからなくても、御本尊を信じて題目を唱えるとき、大聖人の魂にふれていくことができる。わが身に、南無妙法蓮華経の大聖人の生命を涌現させていくことができる。なんとありがたいことか。