池田先生ご指導

勤行・唱題は、仏の生命と一体になる荘厳な儀式です。この勤行・唱題という仏界涌現の作業を繰り返し繰り返し、たゆみなく続けていくことによって、我が生命の仏界は、揺るぎなき大地のように、踏み固められていく。

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一個の人間が十界互具の当体であるという一つのとらえ方として、生命の「基底部」を考えたらどうだろう。「基底部」というのは、同じ人間でも、地獄界を基調に生きている人もいれば、菩薩界を基調に生きている人もいる。いわば、生命の「くせ」です。これまでの業因《ごういん》によってつくりあげてきた、その人なりの「くせ」がある。
バネが、伸ばした後もまた戻るように、自分の基底部に戻っていく。地獄界が基底部といっても、四六時中、地獄界のわけではない。人界になったり、修羅界になったりもする。修羅界の「勝他《しょうた》の念」を基底部にする人でも、人界や天界を出すこともあるでしょう。しかし、修羅界を基底部にする人は、一時的に菩薩界を現出しても、また、すぐに修羅界に戻ってしまう。この基底部を変えるのが人間革命であり、境涯革命です。
その人の「奥底の一念」を変えると言ってもよい。生命の基底部がどこにあるかで、人生は決まってしまう。譬えて言えば、餓鬼界が基底部の人は、餓鬼界という船に乗っているようなものだ。餓鬼の軌道を進みながら、その船の上で、あるときは笑い、あるときは苦しむ。さまざまな変化はあるが、船は厳然と餓鬼界の軌道を進んでいる。ゆえに、見える風景も餓鬼界の色に染まっているし、死後も、宇宙の餓鬼界の方向に合致していってしまうでしょう。
この基底部を仏界にしていくのが成仏ということです。もちろん基底部が仏界になったからといっても、九界があるのだから、悩みや苦しみがなくなるわけではない。しかし人生の根底が「希望」になっていく。「安心」と「歓喜」のリズムになっていくのです。
戸田先生は言われた。
「たとえ病気になっても『なにだいじょうぶだ。御本尊様を拝めばなおるのだ』と、それでいいのです。そして、安心しきって生きていける境界を仏界というのではないのか。それでいて、仏界に九界があるのだから、ときに怒ったり困ったりもする、安心しきってるのだから怒るのはやめたとか、なんとかというのではなくて、やっぱり、心配なことは心配する。しかし、根底が安心しきっている、それが仏なのです」
「生きてること自体が、絶対に楽しいということが仏ではないだろうか。これが、大聖人様のご境界を得られることではないだろうか。
首斬られるといったって平気だし。ぼくらなんかだったら、あわてる、それは。あんな佐渡へ流されて、弟子にいろいろ教えていらっしやるし、開目抄や観心本尊抄をおしたためになったりしておられるのだから。あんな大論文は安心してなければ書けません」
勤行・唱題は、仏の生命と一体になる荘厳な儀式です。この勤行・唱題という仏界涌現の作業を繰り返し繰り返し、たゆみなく続けていくことによって、我が生命の仏界は、揺るぎなき大地のように、踏み固められていく。その大地の上に、瞬間瞬間、九界のドラマを自在に演じきっていくのです。また社会の基底を仏界に変えていくのが広宣流布の戦いです。その根本は「同志を増やす」ことだ。
ともあれ、この信心を根底にすれば、何ひとつ無駄にならない。
仏界が基底の人生は、過去・現在の九界の生活を全部、生かしながら、希望の未来へと進める。否、むしろ九界の苦労こそが、仏界を強めるエネルギーになっていく。
煩悩即菩提で、悩み(煩悩=九界)が全部、幸福(菩提=仏界)の薪となる。身体が食物を摂って消化吸収し、エネルギーに変えるようなものです。
九界の現実の苦悩と無関係な仏など、真の仏ではない。十界互具の仏ではないのです。それが法華経の寿量品の心です。
ある意味で、仏界とは「あえて地獄の苦しみを引き受けていく」生命と言ってもよい。仏界所具の地獄界。それは、同苦であり、あえて引き受けた苦悩であり、責任感と慈悲の発露です。弘教のため、同志のために、あえて悩んでいく──その悩みが仏界を強めるのです。