祈りは明確に強き一念定めて
これらのことも含めて、本日まず私が申し上げたいことは、「祈りは具体的でなければならない」ということである。
たとえば、きょう一日、無事故で自己の使命を果たせるように。また出張や旅行等の出発の折も、無事に目的を達するように。その他、きちっと一念を定めて、具体的に祈念していく。それでこそ祈りは御本尊に感応し、「事の一念三千」の法理にのっとって、宇宙のあらゆる次元の働きが、祈りの実現へと回転を始める。
妙法を信じ、行ずる者の祈りは絶対に叶う。それも祈る側の「強き一念」があってのことである。強き一念は、めざす的が明確であり、具体的であってこそ生まれる。
漠然とした、心定まらない祈り。義務的、形式的な勤行・唱題。それらは信心の惰性の表れである。惰性の信心は、惰性と空虚の回転を生む。
勤行しないとなんとなく叱られているみたいだからとか、お父さんやお母さんがうるさいし、奥さんのせきたてる声を逃れんがため、しぶしぶ仏壇に向かう(爆笑)。はじめはいやいや、途中は″早く終わらないか″。予定どおり早く終えて(爆笑)、″ああ終わってよかった″(爆笑)。京都には、こんな人はいないと思うが(笑い)、これでは諸天善神も活躍しようがない。(爆笑)
はっきりしない一念では相手に通じない。これは、人間同士でも同じ道理である。
たとえば恋人同士でも、男性が、結婚したいんだか、したくないのか、はっきりしない。なんとなく、そこにいるだけ。指輪もくれなければ、プロポーズもない。具体的なものは何にもない。これでは女性のほうだって、いらいらするのも無理はない(爆笑)。返事のしようもない。
ともあれ、″仏法は道理″である。観念的な、また真剣さのない祈念では、明確な結果は出ない。広布のこと、一家と自身のことに関して、たえず明確で具体性のある祈りを重ねていく。そこに妙法流布の進展もあるし、宿命の打開もなされていく、と私は考える。
たとえば交通事故にも、事故を起こしやすい傾向性をもつ人がいる。無事故を日々、真剣に祈っていくことによって、そうした悪い傾向性をも修正していくことができる。また諸天に守られていく。その他の宿命の転換の方程式も同様である。