池田先生ご指導

その大意は、生命とは、しょせん、瞬間の微妙な「一念」のことにはかならない。 「一念」こそが生命それ自体である。ゆえに仏は「一念随喜」の功徳と説かれたと。

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日蓮大聖人は「持妙法華問答抄」に「命巳に一念にすぎざれば仏は一念随喜の功徳と説き給へり」(御書四六六㌻)と仰せである。
有名な御文であり、私もつねに銘記してきた一節である。その大意は、生命とは、しょせん、瞬間の微妙な「一念」のことにはかならない。
「一念」こそが生命それ自体である。ゆえに仏は「一念随喜」の功徳と説かれたと。
すなわち、その瞬間の生命にも、法華経(御本尊)に随順(信受)することによって、歓喜が涌現し大功徳が得られると説かれたのである。
まさに生命の実相は「一念」以外の何ものでもない。
戸田先生も、ある論文のなかでこう述べられている。
「われらも、この一刻一刻の生命、生活が実相で」「この一瞬の生命のうちに、過去久遠の生活の果を含み、未来永劫の生命の因を含む」と。ゆえに、信心の一念の変革によって、未来も自在に決定づけられる。
わが内なる境涯を、どこまでもどこまでも無限に開き、拡大し、上昇させつづけられるし、人生の現実を無量無辺に開拓し、果てしなく広げきっていける。この一点に、痛快きわまりない信心の醍醐配がある。妙法に生きゆく人生の極意がある。
いかなる社会的地位や名誉や財力も、この向上しつづけてやまぬ人生の「大歓喜」からみれば、あまりにも低次元の、小さな楽しみである。
また、時とともに夢のごとく、はかなく消え去っていくものである。
ゆえに、それらにとらわれて信心を失っていくことほど愚かなことはないと私は思っている。