池田先生ご指導

組織でよく“10時間唱題”等と銘打って行われる唱題会があります。そもそも、祈りの深さは、題目の数や時間で決まるものではありません。  御書には、「何遍唱えなさい」とか、「何時間あげなさい」とは、どこにも記されていない。

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長時間の唱題は足とノドに注意
【溝田】 組織でよく“10時間唱題”等と銘打って行われる唱題会があります。
大勢の人が集まって、締め切った部屋で、長時間の唱題に挑戦する。もちろん、唱題自体がいけないということではありませんが、健康面から考えると、どうでしょうか。
【名誉会長】 これは大事な問題ですね。医学的には、どうなんでしょう。
【森田】 先ほども述べましたが、医学的に見れば、長時間、同じ姿勢でいると、血の巡(めぐ)りが悪くなり、下肢の静脈に血栓症を起こす場合があります。いすに座っていても同じです。最近、よく聞かれる、「エコノミークラス症候群」(急性肺血栓塞栓症=きゅうせいはいけっせんそくせんしょう)は、この血栓症がもとで起こります。
【豊福】 耳鼻科のドクターから聞いたことですが、長時間、声を張り上げていると声帯を痛めるそうです。1日でポリープができた例もあるといいます。
【小島】 ですから、休憩をはさむ、あまり声を張り上げない、水分を補給するなど、十分な注意が必要だと思います。

一遍の題目にも限りない功徳が
【名誉会長】 なるほど。
そもそも、祈りの深さは、題目の数や時間で決まるものではありません。
御書には、「何遍唱えなさい」とか、「何時間あげなさい」とは、どこにも記されていない。むしろ、大聖人は「一遍の題目にも、限りない功徳がある」と言われている。
<「題目を一遍唱えたならば、一切衆生の仏の生命が皆呼ばれて、ここに集まる」(御書498ページ、通解)、「題目を一遍唱える功徳は法華経を一部八巻を読む功徳と同じであり、十遍は十部、百遍は百部、千遍は千部読んだのと同じ功徳である」(同411ページ、趣意)等>
大切なのは題目をあげようという、「心」です。真剣な「志」です。その心が強くあれば、福運はついていくのです。
【小島】 よく題目を一日に「10時間あげた」「8時間、唱えた」という話を会合等で、うかがうことがありますが……。
【名誉会長】 それは、周囲に誤解を与える場合もある。近隣からも狂信のように思われかねない。
また婦人部の方の場合、長時間の唱題の最中に、ご家族が「ご飯まだかな」(笑い)と心配することがあるかもしれない。
【森田】 確かに、それでは信心即生活とは言えませんね。
【名誉会長】 もちろん、唱題に挑戦することは尊い。わが同志、特に婦人部の友の信心のいちずさや真剣さには本当に頭が下がります。
また、題目をたくさんあげたほうが、得であることは言うまでもありません。それは全部、自分の福運となって返ってくるからです。ただ健康面から見れば、決して無理をする必要はない。私はそう思うし、戸田先生も言われていました。
差し迫った悩みがあって、やむにやまれず唱題また唱題の戦いに挑戦する場合も、あるでしょう。その場合でも、十分に体調に注意することです。
いずれにせよ、同じ唱題をするなら、苦痛を耐え忍びながら行うよりも、心身ともに自分の体調が一番いい時に終わらせて、さわやかな気持ちで、活動に飛び出したほうが価値的ではないでしょうか。

唱題会について
【高田】 唱題会については、どう考えればよいでしょう。
【名誉会長】 あくまでも本人の自覚と決意、そして体調に任せて行うべきでしょう。強制はいけません。2、3人の有志による自発的なものはいいが、大勢で一律に行おうとすれば、いろんな面で、だれかに無理をさせてしまう可能性もある。無理は長続きしない。
健康面で言えば、無理をして、足をくじいたり、体調を崩したりするのでは愚かです。心身ともに健康になり、幸福になるための信仰なのに、それでは本末転倒です。
御書には「賢い者を人といい、愚かな者を畜(ちく)という」(1174ページ、通解)と仰せである。最高に賢明に生きるのが、仏法の理想とする人間の生き方なのです。