池田先生ご指導

一次元からみれば、この大法を受持した以上、もはや罪障も罪障でない。 すべて仏界の大境涯を開きゆく重要なカギとなる。

スポンサーリンク

御本尊の受持のみによって、仏の因行も果徳もすべて今世で得ていかれる。
一次元からみれば、この大法を受持した以上、もはや罪障も罪障でない。
すべて仏界の大境涯を開きゆく重要なカギとなる。
煩悩は即菩提であり、苦難は即安楽である。
現在を苦しいと見ている間は、過去の因は罪障とせられるが、一歩進んで現在が仏の光に照らされた時にはもはや罪障ではなくて仏の慈悲である。
妙法を信じ、御本仏の慈光に浴する私達にとっては災難はもう災難ではない。
短命も尚長命である。
不運も不運でない。
みんな仏の慈悲である。
かくいふは理論である。妙法の行者にとってかようの理論は無用の長物である。
一心に只仏を祈ること、それでいいのである。
何よりも大切なのは微動だにしない信心の実践である。
苦を苦と悟り、楽を楽と悟って、一心に仏を見る心持ちで妙法を唱え、そうして強く生きなくてはならない。
世法の外に仏法はない。
仏法の外に世法はない。
尤も円満な尚も正しい生活を送る人がとりもなおさず仏になり得るのである。
末法の我々の衆生の生活を真にかみわけ、充分に理解して導きの手をお示しになったのは日蓮大聖人の他にない。
苦しみにつけ、一心にただ一生成仏を願い、妙法を唱えていく。
何があろうとも、そのたびに一歩一歩、強き心で広宣流布へと勇んで進んでいく。
その強盛なる信心を貫く人こそ、瞬間瞬間、限りなく御本仏の大慈悲に生命が包まれゆく人である。