一言の妙法
大聖人の仏法はご承知のとおり「南無妙法蓮華経」の一言であります。
「人」についての教えにせよ、「法」についてにせよ、「三締三身」にせよ、「化儀」「化法」についてにせよ、あるいは「自行化他」のうえにせよ、すべて「南無妙法蓮華経」の一言であります。
さらに現代風につけ加えるならば、主観や体験のうえにせよ、客観や認識のうえにせよ、まったく同じ妙法の七字に尽きるのであります。この事実につきましては「四信五品抄」にご教示の「位」と「教」の高低の問題等、多々考えることができますが、いまはさておきまして、私は次の点だけを申し上げておきたい。
それは、究極の原点が、ただ一言であるからこそ人類すべての人に通ずるのだ、ということであります。
究極の内容をもちながら、しかもただ一言の「妙法」であるということは、世界広布の最直道を開いたことになるのであります。よく考えてみると、言語というものはおもしろいもので、宇宙といい、我といい、そのほか永遠、全体、変化、運動、美醜、善悪等々、ただ一言によって、なにごとかの全体を表現することはいくらでもあります。われわれが日常、使用する名詞、動詞、形容詞のたぐいは、皆そうだといえましょう。
一言の「妙法」については、「四条金吾殿御返事」にいわく「今経は出世の本懐、一切衆生皆成仏道の根元と申すも、只此の諸法実相の四字より外は全くなきなり…「一句万了の一言」とは是なり」と。
私どもは、このご教示をよくよく肝に銘じてまいりたいのであります。かくのごとく尊い「妙法」であります。それを「広宣流布せよ」と、大聖人はご遺命になったのであります。