朝な夕なの勤行が、どれほど荘厳な儀式であるか。いつでも、いずこでも、真剣な勤行によって、我らの生命には直ちに久遠元初の太陽が輝き光るのだ。
私たちが読誦する「法華経寿量品」の自我偈には、「一心欲見仏 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山」とある。すなわち、衆生が一心に仏を見たいと願い、妙法流布に身命を惜しまない、その時、仏は多くの弟子たちと共に、ここ霊鷲山に出現する、という甚深の法理である。
この経文を通し、戸田城聖先生はよく語られた。
「日蓮大聖人の大生命が、我らの体に満ち溢れてくるんだよ。自行化他の題目を唱える場所も、そのまま霊鷲山となる。そこには、もう不幸などない」と。
なかんずく、創価の友は、世界広宣流布の成就を誓願の祈りとして掲げている。だから、尊く強い。
どんな小さな我が家でも、ひとたび勤行・唱題に臨めば、広大無辺なる霊鷲山の会座が広がる。そして三世の仏菩薩と一体になって、わが一念に大宇宙も包みゆくような境涯を広々と開いていけるのだ。
御聖訓には、「題目を唱え奉る声は十方世界にとずかずと云う所なし」(808㌻)と仰せであられる。
さまざまに分断の亀裂が深まる時代だからこそ、我らは、妙法の大音声をいやまして轟かせながら、一家卷族にも、縁する友にも、地域社会にも、さらには全地球の国土世間にまで、「蘇生」と「和楽」と「安穏」の希望の光を贈りゆくのだ。(中略)
日蓮大聖人は、苦難に挑む門下に仰せになられた。
「釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし」(1451㌻)と。勝利の要諦を教えてくださっているのだ。
さあ、今日も、新たな発心の勤行から出発である。若々しい題目の師子吼で、勇気凛々と勝ち進もうではないか!地涌の青年を澎湃と呼び出しながら!