活動意欲はやれといわれても出てくるものではありません。一つの問題に対し、まず意を決して「よし、やろう」と奮い立つところにわいてくるのです。
たとえば、池に子供が落ちたとします。どうしますか。即座に池の中に飛び込んで助けてあげるのが人情でしょう。それを寒いし、かぜでもひいたら…などと考えて動かない人はまれだと思います。
信心も道理は同じです。生活に必要不可欠のものと価値を認めればだれでもぐずぐず考えていないで、すぐ信心することを心掛けるでしょう。そのためには題目をしっかりあげることです。そうすれば信心の活動の大切さも感ずるようになりますし、活動意欲がわいてきます。
よく「私には力がないもので仏法対話が実らない」という人がいます。だからこそできるようにと御本尊に祈念していくのです。話したらみな素直に入信するなら広宣流布など苦もなく達成できてしまう。広宣流布が大変なのは、相手が仏法をなかなか理解できないところにあるといえましょう。
卑近な例をあげると、自分が腹を痛めて産んだ子も、親子さえ断絶ができたり、自分自身が思う通りにいかないことがある。また、大恋愛の末に結ばれた夫婦であっても、ミゾができることがある。
まったくの他人にこの信心を理解させようという作業なのですから、大変なのは当然です。
「あの人はなかなかわかってくれない」などとこぼしていたのでは、環境に負けたことになってしまう。大変だ、だからこそ祈りが大事である。