池田先生ご指導

御本尊が偉大であられるがゆえに、たとえ真実の発心で無くとも御本尊に縁しゆくだけで功徳がある。

仏法の世界は、だれが偉いとか、だれが偉くないとかいう次元のものではない。
信心が強盛かどうかである。
少しも見栄をはる必要はない。また、あってもならない。仏法に説く「無作」、すなわち働かさず、つくろわず、そのままの姿でいっさいよいのである。
虚栄の人は虚栄で滅び、人気で生きている人は、人気が消え去るとともに滅びる。傲慢の人は傲慢に倒れ、策の人は策で滅びていくものである。


御本尊が偉大であられるがゆえに、たとえ真実の発心で無くとも御本尊に縁しゆくだけで功徳がある。
まして、信心の動機がいかなる世法的な願いであったとしても、御本尊を拝しながらの真剣な唱題であるならば、そこには必ず功徳が薫ってくることはまちがいない。
唱題したということによって、自身に功徳が薫発される。


いやな思い、苦しい思いをすることがあったとしても、それらはすべて魔の所作によるものであることを見破り、それらをつきぬけて毅然と勤行・唱題に励み、広布の活動を力強く推進しゆくことじたいが信心強き仏界の人生なのである。


仏法をたもったがゆえに、多々苦労はあるにちがいない。しかし、信心のうえの苦労はすべて、いうなれば生命のなかに無量の貯金をしているようなものである。
その貯金は、大事なときに必ず使われていく。ゆえに信心の年輪を刻んでいけば、長い人生にあって、いくつかの苦境に遭遇しても、その貯金を引き出して、必ずやすべてをのりきっていけるのである。

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