題目を唱えるということが、どうして大事なのか、なぜ功徳があるのか、これは凡夫の理解力をもってしては解しがたい問題である。
たとえば、ある一つの哲理を理解し、それを生活に応用する。そこに効果があらわれることは、当然の道理として理解できる。
だが、文章としてではなく、一つの言葉を口に唱えるだけで、事実の生活に効果が出てくるというのは、容易に理解できることではない。
南無妙法蓮華経を唱えるということは、法華経の法理のエッセンスでもある。法華経のエッセンスとは、とりもなおさず、八万法蔵といわれる仏法全体のエッセンスにほかならない。
この南無妙法蓮華経は、即、八万法蔵であり、宇宙の万法であり、大宇宙のリズムである。われわれが御本尊を信じて、南無妙法蓮華経を唱え、実践していくとき、わが生命のリズムもまた、南無妙法蓮華経のリズムとなって、無上の功力が顕現し、即身成仏するのである。
鬼神とは、生命の精神作用をいうのであって、九識、八識、七識等を意味する。
御本尊を受持する功徳は、凡智をもって測り知ることができない。
信心の深さ、強さ、不惜身命の実践によって、御本尊の功徳は、無量に涌現する。
浅はかな信心で、凡夫の智慧で、これぐらいのものか、などと思っては大間違いである。信心が深まれば深まるほど、行学を重ねれば重ねるほど、御本尊の偉大さ、功徳の大きさに、ただただ驚嘆し、その福運のすばらしさに感激するのである。
妙法のみは、生活法の原理であり、好むと好まざるとにかかわらず、あらゆる人々が絶対必要とする法理なのである。聞く、聞かない、という相対的な法則では決してない。妙法を受持せぬことは、自動車にガソリンがないようなものであり、また、テレビや電話器があっても、電流を必要としないという考え方に似ている。