現実の証拠というものは、全て法に従って出るものである。故に妙法蓮華経という生命の法則を敵に回すほど恐ろしいことはないし、逆に、これを味方にするほど強いことはない。

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現世に受ける罰は、その原因を自覚することができるから、心を改め、原因から変革し罪障を消滅するための機縁になりうる。したがって。現世に結果が出るということは、むしろ、ありがたいことなのである。それが、未来世にはじめて出てくる場合は、記憶の持続がないため。原因を知ることが困難で、したがって、苦境から脱出することが、きわめてむずかしくなる。
生命は必ず因果の法則にしたがって、さまざまな経路をたどり、苦楽にあうのであるから、現在の果の実態を厳しく見つめ、過去の因を察知して、そこから自己の宿業の転換を図っていかなければならないのである。


強盛な信心があるならば、我々の信心を妨げ、幸福を奪おうとする魔の力も冥伏してしまい、逆に仏法を守護し、我々の幸福を守る諸天の働きになっていくのである。


正法とは妙法蓮華経のことであり、それは宇宙、生命を貫き支えている法則である。故に、この自然界の大法則に背く行き方は、自らを苦悩におとしいれることになるのである。
現実の証拠というものは、全て法に従って出るものである。故に妙法蓮華経という生命の法則を敵に回すほど恐ろしいことはないし、逆に、これを味方にするほど強いことはない。


奥底の一念が、大御本尊の偉大な功力を確信し、妙法を護持できた喜びに満ち溢れているならば、たとえどこに行こうとも、行くところいっさい寂光土となるのである。また、同じ妙法を護持していても、信心がないならば、いつまでも苦しみの娑婆世界から抜け出せないということもできる。喜び輝く生命状態は、唱題に励み、仏道修行に邁進することによって得られるのであり、そのときに娑婆即寂光土となるのである。


潮の干満、月の出と月の入り、あるいは夏と秋、冬と春のような、自然の境目にも変調がある。信心修行の上においても、凡夫が仏になる時には、かならず三障四魔の嵐が出てくる。したがって、三障四魔が競うのをもって、己れの宿命転換をして成仏を遂げる時であると知るがゆえに、賢者は喜んで、この難と戦うのである。しかし、愚者はそれを知らず、三障四魔の表面的な恐ろしさに驚いて退転してしまうのである。


なかには味方のような顔をした魔もある。むしろ、魔はその姿を隠して人を欺くのが本領であるともいえる。
友人、先輩が真心から忠告すると見せかけて信心を妨げるかもしれない。妻子・父母の肉親の愛情という武器で攻めてくることも多い。