末法の功徳は、冥益といいます。
それは、雪が静かに積もるように、知らないうちに、積もっていくものです。
釈迦仏法では、「顕益でした。はっきりと、目に見えない功徳です。
釈迦在世の人々は、心もきれいで、善良な人が多く、功徳もすぐあらわれたのです。
しかし、末法は「冥益」が主です。日蓮仏法は「冥益」です。
どちらかというと、「顕益」のほうが良いように思えるかもしれない。
しかし、あまりすぐに功徳が出ると、安心したり、おごりが出て、本当の人生の、深く大きい生き方ができなくなる場合がある。
すべてが大宇宙の法則に則った仏法なのです。
それを確信して、たたひたぶるに、題目をあげていくことです。
また、人のために唱えた題目であっても、全部、自分にかえってくる。
人のためにも、自分のためにもなる。両方に功徳が出る。
そうやって何倍も大きな功徳になっていくのです。
さらに言えば、日ごろの地道な「題目の貯金」は、人生の「大事なとき」に出てきます。そして、人生の総仕上げのときには、「こんなにも常楽我浄の人生となった」
「こんなにも素晴らしき境涯を開くことができた」と心から言える自分になっていく。
経文に照らして、御書に照らして、そうなるに決まっている仏法なのです。
大聖人の仏法にかなった生き方。自らの使命を果たしゆく人生。
これは、牧口先生、戸田先生が示してくださった通りです。
安心してください。
何があってもお題目です。
何があっても学会から離れないことです。
信心には、特別の方法や、特別の恰好はありません。
あなたの、ありのままの姿のなかに、仏の生命が具わっているのです。
それを諸法実相の仏という。
その仏の境涯だ、仏の力が、仏の福運が、自然のうちに、わが身を飾っていくことを確信してください。