池田先生ご指導

しかし、口に人類愛を論じながら、身近な周囲の人も大切にできぬ悪しき観念論者であってはならない。現実の労苦もなく、高邁な弁舌に自分が酔っている人は、われ高しと傲っていても、実は最も下劣な人間なのである。

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深遠な哲学論議もよい。遠大な理想も大事である。素晴らしい御書講義もよいだろう。しかし、口に人類愛を論じながら、身近な周囲の人も大切にできぬ悪しき観念論者であってはならない。現実の労苦もなく、高邁な弁舌に自分が酔っている人は、われ高しと傲っていても、実は最も下劣な人間なのである。


ルソー
「書物の中で遠大な義務を説きながら、身の回りにいる人に対する義務を怠るような世界主義者を警戒するがいい」


人間としての振る舞いのなかに、仏法は脈動し、信仰の実証が現れるのである。爽やかな、人として立派な振る舞いこそ、正しい信仰の発露といえよう。
その振る舞いによって、人々から称賛され、尊敬され、信頼される存在になってほしい。
その信頼の輪が広く、深く、輝かしく広がっていくところに「広宣流布」はある。


「信仰している人たちは、さすがである」と、人々が安心し、称賛しゆくところに、事実のうえで、地域の広布の流れもできあがっていくことを忘れないでいただきたい。