御書には「餓鬼はガンジス川を火と見る。人は水と見る。天人は甘露(不死の飲料)と見る。水は一つであるけれども、それを見る衆生の果報(境涯)にしたがって別々である」とも仰せです。見るものの「境涯」によって変わる。さらに言えば、自分の境涯が変われば、住む「世界」そのものが変わるのです。これが法華経の「事の一念三千」の極理です。
日蓮大聖人は、御自身の受難の御生涯を、こう仰せです。「日日・月月・年年に難かさなる、少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」と。その大難の極限ともいうべき、佐渡流罪の日々にあって、大聖人は悠然と「流人なれども喜悦はかりなし」と叫ばれた。まさに宇宙大の御境涯から、一切を見下ろしておられた。
牧口初代会長も、「大聖人様の佐渡の御苦しみをしのぶと何でもありません」と、獄中生活を耐えぬかれた。さらに、「心一つで地獄にも楽しみがあります」とも手紙に書かれている。当時の検閲で、削除された言葉です。
生命の大境涯。ここに人間の極致があります。
たった一輪の花でも、すさんだ空気を一変させる。大事なのは、自分の環境を、「少しでも変えていこう」「よくしていこう」という「心」であり「決意」です。いわんや、真剣な信心の「心」で戦った人の人生が、生き生きと変わらないはずはない。幸福に、裕福にならないはずは絶対にない。それが仏法の方程式です。
「心一つで変わる」。それは、人生の不思議です。しかし、まぎれもない真実です。
「バラの木が棘をもっていることに腹を立つべきでない。むしろ、棘の木がバラの花をつけるのをよろこぶべきである」(ヒルテイ編『心の糧』正木正訳、角川文庫)という言葉もあります。見方一つで、こんなに変わる。明るく、美しく、広やかになる。
大聖人は「一心の妙用」と仰せです。御本尊を信じる「一心」、そこに不思議にして偉大なる力、働きが出る。わが胸の「一心」という根本のエンジンが動き出せば、ただちに三千諸法の歯車も動き出す。全部、変わっていく。善の方向へ、希望の方向へと動かしていけるのです。
仏の「大いなる境涯」に包まれた時に、自身も、周囲の人々も、そして国土も、すべて「幸福」と「希望」の光に輝いていく。それが「事の一念三千」の南無妙法蓮華経の力です。すなわち、ここにはダイナミックな「変革の原理」が説かれているのです。