池田先生ご指導

病気になるから人生の敗北があるのでは断じてない。 まして、「病気になったから信心がない」などと、周囲の人が決めつけるのは、あまりにも無慈悲です。病気と闘う友には、心から励ましてこそ同志愛です。

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よく戸田先生が語られていた。
「病気になるのも自然の道理です。同時に、病気になった体から、病気を治す力も人間には備わっている」 御書に「三界之相とは生老病死なり」(753ページ)と仰せです。病気そのものも人生の一つの相である。
病気になるから人生の敗北があるのでは断じてない。
まして、「病気になったから信心がない」などと、周囲の人が決めつけるのは、あまりにも無慈悲です。病気と闘う友には、心から励ましてこそ同志愛です。
門下が病気になった時は、大聖人御自身が、全力で励まされている。
病気と闘う力の究極が、南無妙法蓮華経の師子吼です。
「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはり(障)をなすべきや」(御書1124ページ)との仰せを絶対に忘わすれてはならない。
病気との対決を通して、新たな生命の充実をもたらしてこそ価値創造の人生です。だからこそ、あらゆる障魔と戦い抜く師子王の心が大切になってくる。
「負けない魂」「負けじ魂」です。だからこそ日々、「信」「行」にわたり、また自行化他にわたって南無妙法蓮華経と唱え、いかなる病魔にも狂わされない強き信心の一念を鍛えていくことが大切なのです。
大聖人は、富木尼が重い病気になった時に、何度も何度も激励を繰り返されていました。勇気を吹き込まれていた。
〈大聖人は「尼ごぜん又法華経の行者なり御信心月のまさるがごとく・しを(潮)のみつがごとし、いかでか病も失せ寿ものびざるべきと強盛にをぼしめし身を持し心に物をなげかざれ」(975ページ)と激励されています〉
「なげかざれ」です。戦う心が大切です。法華経の行者としての気迫です。また「身を持し」とも仰せです。病気を治すための、しっかりとした行動が大事です。
最初から”病気に負けよう”なんて思っている人はいない。しかし、病気のために、生活や仕事に支障をきたし、弱気になり、絶望感が募るような場合もある。
おそらく、富木尼の場合も、なかなか良くならないことから、あきらめの気持ちが芽生えてしまったのかもしれない。大聖人は、”生きて生きて生き抜きなさい”と指導されている。
〈富木尼に与えられた「可延定業書」に、「命というものは、この身の中で一番貴重な宝です。一日であっても命を延ばすならば、千万両もの莫大な金にもまさるものです。(中略)早く志の財を積み重ねて急いで急いで病を治しなさい」(同986ページ、趣意)とある〉
もちろん、信心していて短命の場合もある。しかし、必ず深い意味がある。人生の価値は寿命の長さで決まるものではない。
「百二十まで持ちて名を・くた(腐)して死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(同1173ページ)と仰せです。
ただ、ここで大聖人が富木尼に強調されているのは、「志の財」と仰せのように、「生きぬこうとする意志」です。意欲と言ってもいいかもしれない。
私たちの一日の生命は、広宣流布に直結した生命です。一日の活動が、そのまま広宣流布の大願成就につながっていく。
だから絶対に病魔、障魔に負けてはならない。
大聖人は、病は仏の御はからいであると仰せられている。病によって求道心が起こるからです
私たちが、現実社会の万人に向かって、慈悲の振る舞いをするための長寿であり、健康です。
もちろん、自分自身のために健康・長寿を祈っていくことは当然です。まして不節制や油断から、自分の健康を損ねてしまっては反価値的行為です。
生活は賢くなければいけない。その日のうちに疲れを取るとか、疲れたら休むとか、賢明な行動で健康は勝ち取るものです。健康は賢者の勲章です。
そのうえで、何のための健康なのか、何のための長寿なのか。法のため、家族のため、同志のため、民衆のため、わが使命の実現のため、広宣流布の大願成就のための健康・長寿です。
大事なことは、広宣流布のなかで戦う生老病死です。その姿そのものが、三世永遠の常楽我浄の実証です。
生老病死は忌むべき苦悩ではなく、常楽我浄の凱歌をとどろかす生命の舞台です。私たちは、生老病死のドラマを通して、人間勝利の歓喜の劇を演じているのです。