仏界を涌現する御本尊への勤行、唱題も、これを毎日、真剣に繰り返していくことによって、わが生命に仏界という宿業を定業化することになる。

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池田先生のご指導より「勤行」その3

つまり釈迦・多宝がこちらを向いているのに対し、上行以下は、それに向かい合っていることになる。したがって、御本尊に対座して私達が勤行しているとき。私達は上行以下の人々と共に、御本尊の中に入っていることになるのである。

故に、日々の勤行・唱題は、御本尊にあらわされている荘厳な宝塔の儀式に、私達自身も列なっている厳粛な瞬間であることを銘記すべきである。


いま一つの、習慣的実践によって生命に染めつけていく方は、われわれがなぜ、毎日勤行し、実践するかということと関連している。人間だれしも、自分の生命とひきかえにしなければならないような事態にめぐりあうとは限らない。否、むしろ、そうした場合にぶつかる人は稀でさえある。とすれば、成仏を定業化できる人は、限られた稀な人ということになる。大部分の人にとって、いや、全ての人にとって開かれた道が、この習慣的実践なのである。


勤行せず教学のみを学んでも意味がない。身近な例で例でたとえるなら、いままで勤行をしていても、勤行をしなくなった場合は、電流のスイッチを切ったに等しく、たとえ絶対なる御本尊があっても、なんの功徳も得られないのである。


勤行・唱題をしたときに、自身の生活のうえに不思議なるリズムと充実がわくことを、皆さん方はつねに体験しているにちがいない。反対に、これを怠ったときに、自分の生活がリズムにのらず、空虚で満ち足りない。まさに反価値としかいいようのない厳しい体験をした人は、このなかにもおられるはず。


いやな思い、苦しい思いをすることがあったとしても、それらはすべて魔の所作によるものであることを見破り、それらをつきぬけて毅然と勤行・唱題に励み、広布の活動を力強く推進しゆくことじたいが信心強き仏界の人生なのである。


われわれにとって大事なことは、なんといっても勤行である。信心の縮図は勤行に尽きる。たくさんの先輩のなかで今日の栄冠を勝ち得た人は、勤行をたゆまず、忍耐強くやりきってきている。それに反して、要領のいい、はったりの人は勤行の実践をおろそかにしていた。一日の活動の源泉である勤行を避けてしまったならば、いくら作戦を練ろうが実るはずがない。勤行こそ宿命転換の第一歩の原動力であり、勤行を真剣にやっている人は顔色もいいし、怨嫉など起こさないし、会うたびごとに成長している。


勤行は前進のためのエンジンだ。それを根幹としてリズム正しく、指導どおり戦っていくならば、すべての戦いにかならず勝ちぬいていけることを確信していただきたい。


信心の基本は、まず第一に、五座三座の勤行を真剣に行ない。題目をできるだけ数多く唱えることである。一日の生活にも、勤行、唱題が源泉となって、偉大な力が躍動してくる。勤行しないと、一日のリズムがこわれ、憂うつで、身体がだるく、話すことも相手に通ぜず、勇気もでない。また日々の勤行が、半ば居眠りであったり、他のことばかりに気をとられて真剣でなければ、その生活も、また環境に流され、居眠りのような生活であったり、心が落ちつかず、たえず不安がつきまとう。こうした経験は、先輩のだれしもが痛感している事実である。


勤行のなかに自分自身の生命、信心の実相が、きちんとわらわれているものだ。前進している信心、生き生きとした勤行の実践があれば、生命は躍動し、宇宙のリズムと見事に調和してくる。生命力が弱まったり、信心が行き詰まっているときは、勤行ができなかったり、勤行していても、なにかおかしいなと感じさせるものがある。


弱々しい題目では、病魔だって打ち破ることができない。宿命転換も不可能だ。白馬がパッパと駆けているような朗々として勤行、唱題をしていこう。御本尊にビンビンと響き、感応していく勤行、唱題に無限の功徳がある。そういう勤行、唱題を実践し、はつらつとした人生を送っていこうではないか。


因果倶時だから、朝の勤行で一日はぜんぶ決まってしまう。朝の勤行を、ほんとうにしっかり行なった場合には、本末究 等で、その日一日はぜんぶ確立される。同時に、夜の勤行であすは元気いっぱい戦わせてくださいという祈り、決意で、翌日は決まってしまう。それがまことの信心即生活である。


仏界を涌現する御本尊への勤行、唱題も、これを毎日、真剣に繰り返していくことによって、わが生命に仏界という宿業を定業化することになる。


信心はまず、五座三座の勤行を不断に実践することが根本である。


われわれにとって大事なことは、なんといっても勤行である。信心の縮図は勤行に尽きる。たくさんの先輩のなかで今日の栄冠を勝ち得た人は、勤行をたゆまず、忍耐強くやりきってきている。それに反して、要領のいい、はったりの人は勤行の実践をおろそかにしていた。一日の活動の源泉である勤行を避けてしまったならば、いくら作戦を練ろうが実るはずがない。勤行こそ宿命転換の第一歩の原動力であり、勤行を真剣にやっている人は顔色もいいし、怨嫉など起こさないし、会うたびごとに成長している。勤行は前進のためのエンジンだ。それを根幹としてリズム正しく、指導どおりに戦っていくならば、すべての戦いにかならず勝ちぬいていけることを確信していただきたい。


因果倶時だから、朝の勤行で一日は全部決まってしまう。朝の勤行を、ほんとうにしっかり行なった場合には、本末究竟等で、その日一日は全部確立される。同時に、夜の勤行で「あすは元気いっぱいに戦わせてください」という祈り、決意で、翌日は決まってしまう。それがまことの信心即生活である。


信心の基本は、まず第一に、五座三座の勤行を真剣に行い、題目をできるだけ数多く唱えることである。一日の生活にも、勤行、唱題が源泉となって、偉大な力が躍動してくる。勤行しないと、一日のリズムがこわれ、憂うつで、身体がだるく、話すことも相手に通ぜず、勇気もでない。また日々の勤行が、半ば居眠りであったり、他のことばかりに気をとられて真剣でなければ、その生活もまた環境に流され、居眠りのような生活であったり、心が落ちつかず、たえず不安がつきまとう。こうした経験は、先輩のだれしもが痛感している事実である。


勤行のなかに自分自身の生命、信心の実相が、きちんとあらわれているものだ。前進している信心、生き生きとした勤行の実践があれば、生命は躍動し、宇宙のリズムと見事に調和してくる。生命力が弱まったり、信心ができなかったり、勤行していても、なにかおかしいなと感じさせるものがある。


弱々しい題目では、病魔だって打ち破ることができない。宿命転換も不可能だ。白馬がパッパッと駆けているような朗々とした勤行、唱題をしていこう。御本尊にビンビンと響き、感応していく勤行、唱題に、無限の功徳がある。そういう勤行、唱題を実践し、はつらつとした人生を送っていこうではないか。


確信のある信心は、勤行の声の響きや、歯切れのよい口調にあらわれてくる。声が極端に大きかったり、その反対に、小さすぎたり、言葉がはっきりしなかったりするのも、その人の信心のあらわれである。