池田先生ご指導

勤行で生命を美しく磨いた人がいると、十方の仏菩薩、諸天善神が群がるようにその人を称えつつ、守ろうと働いていく。

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池田先生のご指導より「勤行」その2

毎日の勤行・唱題により涌現する仏界の生命をもとに、九界(衆生)における人間関係や仕事、社会の場に向かいつつ、そのなかで人間革命の活動を実践していくのです。


日々の勤行・唱題で、仏界の生命を涌現させ。五体にみなぎる宇宙生命を実感しつつ、九界の現実の社会のなかへ打って出るのです。その場における矛盾や不合理を変革するために、再び御本尊との対話の世界に帰り、より強靭な仏界の生命を涌現させる、そして以前より一層の生命力と智慧をもって、九界の社会の現実変革に邁進していく。


唱題によりわれわれの生命の内から涌現した仏界の力は、まず、私たちの色心にみなぎり、挙措動作、振る舞いの上に生き生きとした躍動感となって顕現してくるに違いない。そのさわやかな躍動感が他者の生命に感応し、私たちの内にみなぎる妙法への深刻な認識を呼びさますことになる。
勤行・唱題を終えて、生活のなかに戻れば、再び生命は九界に帰る。したがって、この意味での成仏とは題目を唱えているとき。刹那のことである。ただ、日々欠かさず勤行し、唱題を続けていくことによって生命の奥底に仏界の生命が確個として樹立されていく。
さらに、この勤行・唱題という仏界涌現の作業を繰り返し、生涯続けていくことによって、わが生命の仏界は、あたかも双葉から大樹に育つように、堅忍不抜の存在となっていくのである。これがまた道理である。


いわゆる宿業に定業と不定業とがあるが、その定業を形成する要因の一つに慣習性がある。仏界を涌現する御本尊への勤行、唱題も、これを毎日、真剣に、生涯繰り返していくことによって、わが生命に仏界という宿業を定業化することになる。


勤行・唱題は、小宇宙である自分自身を、大宇宙の根本のリズムに合致させゆく崇高な儀式である。


御本尊へ合掌し、勤行・唱題する。その声は、すべて仏・菩薩、諸天善神のもとに届いている。


顕罰はすぐさま出なくても、生命深部においては厳しい因果が刻まれている。その冥罰が外に形をとって顕われる時間は、人によってさまざまであろう。生命が罪業で濁っている人はなかなか顕われない。信心の強い人ほど、勤行を怠ったりなどすると、すぐ罰を感ずることを考えあわせてみると、わかりやすい。


勤行はしているが、具体的な祈りがないとき
勤行や活動が受け身になり、義務的になっている時。


勤行で生命を美しく磨いた人がいると、十方の仏菩薩、諸天善神が群がるようにその人を称えつつ、守ろうと働いていく。


生命が罪業でに濁っている人はなかなか顕罰は顕れない。生命の清らかな人、信心の強い人ほど勤行を怠ったりするとすぐ罰を感ずる。


 

今までの勤行が惰性に流れ、歓喜が足りなくないか。


御本尊を深く信じて怠らずに題目を唱えて、わが生命を磨きぬいていかなければ、染法におおわれ無明にくもってしまうのである。ゆえに、たゆまない勤行・唱題が肝要であることを忘れてはならない。


宇宙に遍満する大生命力に触れる日夜の勤行・唱題。


煩悩障とは、朝晩の五座三座の勤行をキチンと行なおうと決意はしたが、睡眠欲の強さや疲労に負けてしまう。ちょっとしたことで感情を害しては、学会活動を避ける。娯楽等に心を奪われ、仏道修行の時間を失ってしまう。


御本尊への祈りの質がどうか、冷静に、自身の姿を考えてみましょう。広布への情熱を燃やし、さわやかな、真剣な祈念唱題がなされているかどうか。惰性に陥っているということは、生命と生活に躍動がないという証であり、その一念にハリがないという姿は、そのまま生命のリズムが快調でないことを示しています。勤行の姿勢に、不思議と生活の実相が顕われているものです。ごまかしのきかない世界が仏法の世界なのです。
また所詮、戦っていないから、勤行の声の響きに明るい真剣なリズムが生まれないのではないでしょうか。御本尊が好きで好きでたまらないという人は幸せな人です。ひたぶるな信・行・学がない人は、必ずしまったと悔いるときがくるでありましょう。