河合師範
「平成10年6月2日 寝屋川文化会館にて」
信仰とは夢があり、希望があり、ドラマがあり、歓びがある。こうなればいいなぁというのが夢、こうしよう・こうなろうというのが希望、その希望を具体的に強く祈れぱ、その希望が実現する。それが信仰。
うんと夢を持って、その中からまず具体的な希望を立てて、祈って実現していく。次にまた夢を希望に変えて祈って実現していく。
次から次へと夢を希望にし、実現していくための信仰。頑張っていればいつか実現するのではない。決めて祈らなければ実現しない。
この前、大田区での会合終了後に、1人の地区部長が来て、「10年前に話を聞いて信心で変わろうと決意しました。当時、貧乏のどん底で仕事もなかった。本気で信心で変わろうと決めた。途中いろいろあったが、今、43人使って運送会社をやっています。ちょっと変わりました。」と言っていた。
信心で変わろうと思い続ければグングン変わるのが信仰。そのための信仰。いつか変わるのではない。頑張っていればよいと思って功徳を受けることを忘れていませんか?それではつまらない。
戸田先生は、「祈りを叶え、夢を叶え、誰よりも幸福になっていくための仏法である。人生を勝利するための仏法である。祈りが叶ってこそ真の仏法である。」と言われた。
幸せになるための信仰。祈りを叶えるのが信心。戸田先生は、「現代の人間は非常に欲張りでありながら、成仏という絶大な利益を願わない点においては、無欲とも愚かともいうより他はない。
私どもは大いに欲張って、生きていること自体が嬉しくてしようがないという絶対的幸福の境涯を、我も開き友にも開かせていこうではありませんか。」と言われた。
もっと頑張りましょう。うんと欲張って、何を願っても良いんです。人の不幸は祈ってはいけませんが、それ以外は何を祈ってもよい。あれもこれも願いを叶えて、その歓びを分けてあげましょう。それが広宣流布。功徳が無くて人に言えますか?それは詐欺。
仏法を語るのではなくて、信仰の歓びを語ること。歓びが伝わる。御書に、「喜び身に余るが故に堪え難くして自讃するなり(P.334)」とある。嬉しくてしようがないからつい「仏法はすごいよ」と言ってしまう。これが本当の折伏。
功徳をうんと受けましょう。小遣いがないのに人におごってあげられない。功徳をうんと受けて分けてあげましょう。けちはだめ。大阪の人は、けちではないはずなのに、最近随分けちになりましたね。
功徳を受けることを忘れている。それでよく頑張りますね。功徳を受けるために頑張るべき。
先生が「皆さんの健康・長寿・幸福・裕福を祈ってますよ。」といつもおしゃる。健康・裕福になることが先生に応えること。「こんなに幸せになりました。そしてみんなを幸せにしました。」と報告すれば、先生はうんと喜んでくれる。
「頑張ってます。でも変わってません。」では、先生は悲しみます。今は先生を悲しませている。
先生は幸せの指導者・広布の指導者。功徳を受けない信仰は間違った信仰。惰性と義務になっている。ギアさえ入ればワァっと変わる。