池田先生のご指導、創価学会書籍、聖教新聞より「病気について」について…。
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病気が治る、治らないではない。宿業を転換できるかどうかだ。
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病気に苦しんで初めて、自身の謗法罪障に、悪しき宿業に気づくのです。
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「この病気は、信心に目覚めさせるための御本尊の御はからいなのだ」と。そう発心していくならば、大きく境涯が開けるのです。
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「われわれは折伏を行ずるために、願って貧乏で、また病気などの身で生まれてきたのだ。故に折伏をやりきれば、必ず絶対的幸福の境涯にもどる」
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生きようという「希望」の力によって、脳が体に命令を下し、「人体の化学兵器を駆使」して、病気と闘わせる。
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戸田先生は「病気がなかなか治らない」と愚痴をこぼす人に対して、 「初めから立派すぎたのでは人々の中に入っていけないから、われわれは仏法をを弘めるためにわざわざ貧乏や病気姿をとって生まれてきたんだよ」「人生は芝居に出ているようなものだよ」
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さらに信仰と病気の関係でいえば、まずは医療の力によって病気に対処していくのが、信仰者としての賢明なあり方でしょう。その上で信心には、私たちの内面から生命力を涌現させる力があります。この生命力が、医療の処置を最大に生かすとともに、私たちが病苦を乗り越え、はつらつと生き抜く原動力となります。
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戸田前会長は、生命にかかわるような重大問題、生命が絶対絶命になったような境遇に陥ったときに、ほんとうの題目を唱え、折伏をしたときに、宿命の転換がなされるのだといっておられた。われわれも生活が行き詰まったり、病気や苦しいことにあったなら、そのときこそ、仏になれる、人間革命ができるのだと信じて、しっかり題目をあげようではないか。
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お題目をあげきり、学会活動に励むならば、必ず治る! 病気は宿業が消えんとして軽くそれを受けている姿です! 御本尊を持った功徳です!
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仏法で心身の病苦を治す働きとしてあげられているのは、薬王菩薩である。御本尊に題目を唱えていく時、我が胸中に薬王の生命が湧現し、病気と闘う力として働いていくのである。
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「病によりて道心はをこり候なり」(御書1480ページ)です。信心している人が病気になるのは必ず深い意味がある。永遠の生命を悟る一つの回路であるともいえる。
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どんな病気も最終的な決め手となるのは人間の自然治癒力なのです。いかに優れた医療技術を施しても患者自身の持つ生命力が弱ければ、病気は治りません。医学はその人の治癒力を手助けし、支える役割を担っているわけです。病気を治す根本はむしろ、人間の側の生命力をどう増幅させるか、にかかってくるのです。その生命力を高めるために信仰の力が必要ということか。
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体は健康でも生命が病んでいる人はたくさんいる。体は病気でも生命それ自体は健康である人もいます。
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「御痛みの事一たびは 二たびは悦びぬ…此れは是れ業が謝せんと欲する故に病むなり」この病気を経験することで過去世の罪業が、今、消滅しようとしているんだ。
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心の中で、この世に起きうる最高に素晴らしい出来事を思い描いた場合は。免疫の力が活性化して、病気への抵抗力が強まっている。孤独感や、慢性的なストレスに耐えている人は、病気と闘う免疫の力が弱くなっていく。
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結論からいうと、信心によって、仏界という、最高の生命が涌現され、強い生命力がつくから、病気を治すこともできるんです。
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病気になったら、医者にかかるのは当然です。仏法は道理ですから、医学の力は、大いに役立てるべきです。しかし、病気を克服する根本の力は、自分自身の生命力なんです。
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御書には、病気や貧乏等をどう解決すべきかといった指針はありません。人生におけるさまざな苦悩の根本原因は、自分自身の宿業にあることに気づかせ、宿業を転換しゆく信心を奮い起すことを教えてくださっているのです。
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学会活動の中で病気をはねかえしていこう
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