本日の御書

本日の御書 日蓮は日本国東夷東条安房の国海辺の旃陀羅が子なり、いたづらにくちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事あに石に金をかふるにあらずや、各各なげかせ給うべからず(佐渡御勘気抄p891 n1196)

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【御書本文】
日蓮は日本国東夷東条安房の国海辺の旃陀羅が子なり、いたづらにくちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事あに石に金をかふるにあらずや、各各なげかせ給うべからず(佐渡御勘気抄p891 n1196)

【通解】
日蓮は日本国の東国の片田舎の者で、安房の国東条の郷・海辺の旃陀羅の子である。むなしく朽ちるであろうこの身を法華経のために捨てることができるのは、ちょうど石を金にかえるようなものではないか。あなた方は、嘆かれてはならない。

【先生の指導から】
ふつうならば、信者に対して、少しは”見栄”を張って、自分を良くみせようとするかもしれない。しかし大聖人は、むしろ「民の子」であることを誇っておられた。なぜか。さまざまに拝することができるが、こうも考えられよう。
すなわち、「民の子」であるからこそ、”一切衆生を仏にする”民衆仏法を弘めることができるからである。また、「民の子」であるからこそ、大難が起こる。
貴族の子どもであれば、権力に守られて、あれほどの大難は起こらず、法華経の予言は証明できなかったであろう。
民衆の、しかも当時、最低の立場とされた「旃陀羅が子」として生き抜いて、そのままの姿で最高の人間すなわち「仏」になる。この痛快なる、人間の真髄の逆転のドラマを、大聖人は示してくださったのである。それが法華経である。
今も、同じである。学歴もない、名家でもない、財閥でも、有名人でもない庶民が、信仰の力で「ああ、立派な人だった」「何と、美しい人生か」と、皆に慕われる人間革命をする。それが尊いのである。自分を権威で飾ったり、ウソで飾ったり、虚栄と虚勢の人生は、大聖人の仏法とは正反対の人生である。むしろ、そういう虚飾の権力者、権威主義者と戦うのが、日蓮仏法なのである。