法悟空 内田健一郎 画 (6033)
山本伸一が法華講総講頭、学会の会長を辞任することで、若手僧らによる学会攻撃はピリオドが打たれることになっていた。
五月一日には、宗務院から「院達」として、次のような事項が徹底されている。
「御講等に於ては、御書による教義以外の説法は固く禁ずる。従来、しばしばこれについての通達あるにもかかわらず、乱れが見られたが自今以後は厳しく自誡せられたい」
「創価学会員に対しては、自分からの意志・希望によって檀徒となることを申出た者は受け入れて差支えないが、それ以外は一切の働きかけを固く禁止する」
「院達」を無視して学会誹謗を続ける僧には、法主の日達も叱責することがあった。ところが、若手僧の寺の多くが、御講の席などで、学会への中傷、攻撃を繰り返していたのである。また、学会員を檀徒にする動きも、むしろ活発化していた。
もはや彼らは、宗務院の言うことも、さらには、法主の言うことさえも、耳を傾けようとはしなくなっていたのだ。宗内は、次第に混乱の様相を見せ始めていたのである。
七月二十二日午前六時過ぎのことであった。伸一のもとに日達法主が亡くなったとの連絡が入った。日達は、十七日、福岡の寺院の法要に出席し、十八日に総本山に戻るが、翌十九日朝、体調が優れず、富士宮市内の病院に入院した。そして、二十二日午前五時五分、心筋梗塞のため息を引き取ったのである。七十七歳であった。
伸一は、直ちに神奈川文化会館から弔問に向かった。午前九時前には総本山に到着。懇ろに唱題、焼香し、冥福を祈った。
この日夜から、大客殿で仮通夜が営まれ、席上、重役である僧から、「重大発表」があった。それは、総監の阿部信雄が、前年四月、日達から内々に相承を受けており、彼が第六十七世の法主になることが決まったというものである。この時も、広宣流布のために和合を願い、宗門を守っていくというのが、学会の姿勢であった。