日蓮大聖人の仏法では、宇宙の本源の「法」を「本尊」とする。それは自分自身の生命の根源「法」でもある。ちょっと難しいが、「墳智冥合」といって、拝む対象の「墳」と、拝む側の「一念」である「智」が奥深く合一していく。つまり、宇宙の究極の「法」と自分の「一念」が合体して、祈りとなる。
たとえていえば、ギアを噛み合わせていくということです。小さなギアでも、大きなギアと、きちっと噛み合わせれば、すごい力が発揮できる。
同じように、「小宇宙」の自分自身が、「大宇宙」の生命と、きちっとギアを噛み合わせていけば、どんな悩みも乗り越えられる無限のパワーが出るのです。祈りを叶えるために、全宇宙の諸天善神、仏・菩薩も動き始める。
「卸本専には、無限の仏力、法力が備わっています。その大功徳を引き出していくのが、大聖人の仰せ通りの信心と実践、つまり、信力、行力なんです。ところが、唱題に励んでいても、『こんなに大きな願いは、叶いっこないだろう』などと、御本尊の力を疑って
いる人が、よくおります。
だめだと思いながら祈っているんですから、これでは願いが叶うわけがありません。皆さんだって、『どうせ、あなたに頼んでもむだでしょうが、力を貸してください』なんて言われたら、絶対に協力するものかと、患ってしまうでしょう。
ですから、御本尊への純粋にして強き信の一念が」また、感謝の祈りが、功徳を引き出していく要諦になるんです。御本尊の偉大な功徳力からすれば、皆さんの願いなど、まだまだ、小さなものです。
どうか、もっともっと強い信心に立って、もっともっと大きな功徳を受けてください」
折伏の行をなす者は、仏の使いとして御本仏からつかわされた者であり、御本仏の行を、その代理として行ずる者である。ゆえに、その人の日常は卸本仏に感応して偉大な生命力を涌出して、いかなる困難にも打ち勝ち、その顔は生き生きとし、体は元気に満ちていく」
日寛上人は、「我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」 (当体義抄文段)と示しておられる。
広宣流布に生きゆく皆さまの生命それ自体が、御本専の当体と輝き、蓮祖大聖人と一体となる。
これほど尊極な生命は絶対にない。
自分自身が、妙法の宝塔である。自分自身が今いるその場所が、いずこであれ、本有常住の常寂光土なのである。
ゆえに、何も恐れるものはない。決して行きつまることもない。断じて不幸になるわけがない」
有難う御座います。感謝ばかりですと
境智冥合