いわゆる妙法は不可思議な法なのである。
信心は宿命を打開して、永遠に、身も心も軽くしてくれる。
信心なき苦労は、永遠に重い生命の傾向性をつくってしまうのである。
一生、信心を貫きとおした人と、信心なき人と、中傷、非難した人と、それぞれの人生がどう違うかを御聖訓に照らしながら確信を深めつつ前進していくことが、また弘法を推進していく要件となっていくことを忘れないでほしい。
主体である正報のわが身も十界三千の当体であり、客体である依報の社会も十界三千の当体である。
長い広布の途上において、何の苦難もなければ、木石に等しい。
地獄界から仏界にいたるまでの十界の現状を認識し、体験していくなかに、それぞれが賢明になり、社会を知って、広宣流布への一つひとつの開拓がなされていくのである。