毎日の題目の功力によって解が生じてくるので、解とは学問の理解である。学問することによって、すなわち大聖人の御書を精読することによって、毎日、行の助けをかりて信仰の根本義が理解され、理解することによって、信心がまた、ますます深くなり、信心が深まることによって、行をますます励むのである。
せっかく信心しているのに〝怨嫉〟してはいないだろうか。環境に負けてはいないか。マンネリズムに陥ってはいないか。魔を見破れないでいることはないだろうか等々、健康診断ならぬ〝信仰診断〟というものが、人間はときどき必要ではないか。