自分の人生観、世界を首尾一貫して理路整然と主張するひと出会うけれども、常識的な生命観からいって、「この人は無理しているな」と実感させる人が意外に多い。その場合、理論をとうとうと述べる人の生命から、こちらが受ける迫力なり躍動感がないのですね。もっとも、例外もありますが…。
理論的な破綻なく、見事に答えても、生命はごまかせない。たとえ、理論や思想で完璧に城壁を築いても、生命自体は地獄界なら地獄界、餓鬼界なら餓鬼界の境涯をそのまま表現しながら、奥底の一念では妙法を求めていたのです。
はじめは、いかにも浅い、弱い信心かも知れない。だが、その信心によって行・学の実践を起こすことによって信心そのものがより深く、より強くなっていく。この繰り返しによって、信心は「月月日々に強り」深まりながら、持続されていくのである。
仏法の根本義に立つならば、いっさいは信心を強め、深めていくことに目的がある。信心は即、仏界なのである。しかしながら、信心それ自体は心の中の問題であり、それを強める、深めるといっても、とらえどころのないものである。これを強め、深めていく具体的な手がかりとしての実践が行であり、学なのである。