毎日の勤行・唱題により涌現する仏界の生命をもとに、九界(衆生)における人間関係や仕事、社会の場に向かいつつ、そのなかで人間革命の活動を実践していくのです。
日々の勤行・唱題で、仏界の生命を涌現させ、五体にみなぎる宇宙生命を実感しつつ、九界の現実社会のなかへ打って出るのです。その場における矛盾や不合理を変革するために、再び御本尊との対話の世界に帰り、より強靭な仏界の生命を涌現させる。そして以前より一層の生命力と智慧をもって、九界の社会の現実変革に邁進していく。
この仏界の涌現と九界の社会活動との間における相互作用こそ、日蓮大聖人の仏法のダイナミズムといってよいでしょう。
日蓮大聖人が「仏法と申すは勝負をさきとし」と述べられているのも、妙法という宇宙生命の根源力が、その抵抗力とたたかって、これを止揚しつつ発現してくるという根本原理に根ざしているのです。力は、抵抗があってはじめて力たりえます。抵抗や反対のないところには力は発現しません。おのずから、人は抵抗を求め、これとたたかうことにより、より以上の力を発揮するのです。
すでに仏界の涌現が、われわれのなかにある煩悩と汚辱にまみれた九界の生命とたたかい、これを止揚しつつ発現してくるのです。仏法にいう煩悩即菩提、生死即涅槃とはこのことを指していっているのです。「即の一字は南無妙法蓮華経なり」との仰せを肝に銘ずべきでしょう」
この「即」の一字のなかに、宇宙生命の根源力たる妙法が、抵抗力や対抗力とたたかい、これを止揚していくというダイナミズムが意味されているのです。煩悩や生死の迷いの力とたたかい、それぞれ、即菩提、即涅槃へと転換していく。その結果、成仏へ向けての自己変革が為されていくのです。したがって、われわれを悩ませる煩悩や生死の力が強ければ強いほど、より妙法の生命力を涌現させることが要請され、われわれの強盛な信力がより一層望まれるということになるのです。
この「即」の一字のなかに、宇宙生命の根源力たる妙法が、抵抗力とたたかい、これそ止揚していくというダイナミズムが意味されているのです。煩悩や生死の迷いの力とたたかい、それぞれ、即菩提、即涅槃へと転換していく。その結果、成仏へ向けての自己変革が為されていくのです。したがって、われわれを悩ませる煩悩や生死の力が強ければ強いほど、より強く妙法の生命力を涌現させることが要請され、われわれの強盛な信力がより一層望まれるということになるのです。
逆境になればなるほど、信心の成長が遂げられるのも、この「即」の原理に由来します。さて、信心即生活、仏法即社会などの原理は、自己変革を遂げた一人一人が軸となって、この法の波動を、近隣に、生活に、社会におよぼしていくことをいいます。
したがって、この場合の「即」は妙法の生命力を涌現させた私たち一人一人の人間性を媒介することを表わしているのです。ここに、大聖人の仏法が、人間関係や社会のなかでの実証を求める所以が存するのです。
証明は、全く第三者たる仏法が認識し、深くうなずくところに成立します。
妙法がいかに、偉大な宇宙生命の根源力ではあっても、他者の眼には、まったく見えないし、感知できません。しかも人間は、具体的に、肉眼で捉えられる世界を通してしか認識できないという限界を背負っています。
私たちが、いかに妙法の絶大な力を生命に実感しつつ、その偉大性を語っても、現実には見えないゆえに、他者は信じようとしないでしょう。他者にはっきりと認識できるのは、妙法の偉大さを語る私たちの行動や姿、生活態度を通してであります。
まさに「人なのです。この意味で「自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」の文は永遠の指針といってよいでしょう。
勤行・唱題によりわれわれの生命の内から涌現した仏界の力用は、まず、私たちの色心にみなぎり、挙措動作、振る舞いの上に生き生きとした躍動感となって顕現してくるに違いありません。
そのさわやかな躍動感が他者の生命に感応し、私たちの内にみなぎる妙法の力への深刻な認識を呼びさますことになるわけです。