まじめに信心している人であっても、その宿命打開の途上において、大小さまざまな苦しみと戦かわなければならないことがある。無始の昔からの積もり積もった罪障を、いまこの一生で消滅しようというのであるから、さまざまのものが出てくるのは当然である。誰を恨やむこともない。いわんや、御本尊を疑うなどは、とんでもないことである。転重軽受の法理を確信し、御本尊の偉大な功徳に心から感謝して、いっそう強い信心に立ち、唱題、折伏に励みゆくことが、大事であり、それが結局、最短コースなのである。
また、いったん信心したけれども、途中で、疑いを起こしたり、嫉妬したり、そして退転していく人がいる。この人は、退転することによって、せっかく消しかけた罪を、また元に戻してしまうのである。地獄の苦しみを味わい、結局は、気がついて、必ずまた御本尊のもとに戻ってくるのである。
いまや広宣流布の秋である、勇まなくてはならない。しかし、自分の行動に絶対の確信がない者は、この大行進には邪魔である。この絶対の確信はどこから生ずるか、御本尊を信じきることにある。
御本尊は大聖人の御命であり、われわれの生命であることを深く堀りさげて知るときに、この確信がでるのである。
大御本尊と一致の境涯の大根幹は、強力な信心であって、この信心によって、毎日の行は励まされてくるのである。
毎日の題目の功力によって解が生じてくるので、解とは学問の理解である。学問することによって、すなわち大聖人の御書を精読することによって、毎日、行の助けをかりて信仰の根本義が理解され、理解することによって、信心がまた、ますます深くなり、信心が深まることによって、行をますます励むのである。
信・行・学は、われわれ信者に欠くべからざる条件であって、折伏は広宣流布を誓った信者の必須条件である。われわれがひとたび御本尊をたもつや、過去遠々劫の当初に仏勅をこうむったことを思い出さねばならない。「末法に生まれて広宣流布すべし」と仏勅をこうむっているのである。
この仏勅を果たさんがために、われわれは出世したのである。仏の一大事の因縁は、二十八品の法華経を説かんがための出現であり、大聖人御出現の一大事の因縁は、「南無妙法蓮華経」を私どもにくださって、われわれ大衆を救わんがためである。
われわれの因縁は、広宣流布の大旗を掲げんがためである。