幸福な状態で死んだときは、それは、ぐっすりと安楽に熟睡しているのであり、不幸な状態で死んだときは、それはあたかも犬に追われて逃げようとあせり、いまにも追いつかれそうで、もだえ苦しんでいる。悪夢にうなされているようなものである。
題目の力は偉大である。苦しい業を感ずる生命が、あたかも美しい花園に遊ぶがごとき、安らかな夢のごとき状態に変化させる。
御本尊に真剣に唱題していくならば、生死の流転の闇を、生 世 にわたる「福運」と「功徳」の花園へと転じていける。また、この偉大なる功力を、日々祈りと実践の中で深く実感していけるのが、仏法なのである。
ウサギとカメの競争のたとえ話ではないが、一生成仏への長く険しい道を、最後まで登り切れるかどうか、自らの使命の道を全うできるかどうかが信心である。
二十年の信心を続けながら歩みを止めてしまう人もいる。功徳を受けながら初心を忘れ、信心が惰性に流されている人もいる。
また青年時代にそれなりの立場になり、華々しく活躍しているようで、成長が止まってしまう人もいる。それでは、走るのは速いが、途中でやめてしまったウサギのようなものである。
組織のうわべの姿のみで信心は決してわからない。
信心だけは地道に見えても最後まで貫き通した人が、結局は勝利を得る。ゆえに、信心の「心」こそ大切なのである。