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生命に刻まれた善悪のエネルギーは、死によっても消えない。次の生へも続いて、持ち越していく。「エネルギー不滅の法則」に似ているかもしれない。  そういう「宿業」も、しかし日蓮大聖人の仏法では全部、転換できるのです。  定業も転換できる。いな、転換しなければならない。

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「生と死」の法則 は、全宇宙に通じる普遍的なものです。しかし、その表れ方は、どこまでも個別的であり、人によって千差万別です。あまりにも複雑に、いろいろなものがからみ合っている。
たとえば、「定業」と言って、その人の過去世の行いによって、寿命とか根本的な軌道が決まっている面がある。
また「不定業」と言って、報いを受けるかどうか決まっていないものもある。病気に譬えれば、定業は「重病」であり、不定業は風邪みたいな「軽病」です。
だれが悪いのでもない。「自分は、どうして、こんな家に生まれたんだろう」「自分は、どうして、もっと美人に生まれなかったんだろう」とか悩む人もいるだろうが、全部、自分の過去の「行い」が招いた結果です。

業とは「行い」のことです。心に思ったこと、口で言ったこと、実際にやったこと、そういう「行い」が、すべて自分の生命に刻まれる。善の行いをすれば、幸福な善い結果が、悪の行いをすれば、不幸な悪い結果が、いつか出てくる。
生命に刻まれた善悪のエネルギーは、死によっても消えない。次の生へも続いて、持ち越していく。「エネルギー不滅の法則」に似ているかもしれない。
そういう「宿業」も、しかし日蓮大聖人の仏法では全部、転換できるのです。
定業も転換できる。いな、転換しなければならない。
どんな苦しいことがあろうと、最後の最後まで生きぬき、戦いぬき、勝たねばならない。最後に勝てば、その人が「人生の勝者」です。途中で決まるのではない。最後に勝てば、それまでのすべてが「意味があった」と言える。
最後に負ければ、それまで、どんなに順調でも、すべて無意味になってしまう。
(たとえ病気が治らなくとも)本当に強盛な信心を貫いて死んだ場合は、その人は「勝った」のです。
自分が病気で苦しみながら、最後まで広布のために祈り、友のために祈り、周囲の人を励ましながら亡くなった人も、いっぱいいます。
そういう生き方、死に方が、どれほど多くの人に「勇気」を与えたかわからない。すぐに健康な体で生まれてきます。