勝つか負けるか、どちらかである。ならば、どこまでも徹して強信であっていただきたい。そこに一切を開く急所がある。また、例えすぐには目に見えなくとも「冥益」(気がつかないうちに受ける功徳)として、時とともに勝利へのリズム、発展への回転をつくっていく。
こうした「信心の勝利」の方程式を証明する体験は、数限りなくある。
「一心の妙用」(心の不思議な働き)という信心の極意がある。
「信心」の力用次第によってやがて厳然とかなえられていく。
我こそは、如来につかわされた尊い身分であると確信すべきであります。自分を卑しんではなりませぬ。「仏の使いであります。如来につかわされた身であります。凡夫の姿こそしておれ、我等学会員の身分こそ、最尊、最高ではありませんか。
しかし、この確信に立ちました時に、私共は「如来の事」を行わなくてはなりません。それはなんでしょうか。
仏が日夜御苦慮あそばされていることは、釈尊により、大聖人によって実証されておりますように、一切大衆を安慰にする。すなわち、幸福にする。生存に確信を持たせる。時間、空間にさわりなき自由の生命を顕現せしめる。しかして、浄化された生命に、一切の罪障を滅尽せしめようとするところにあります。
そして「一切衆生を救うということは、やさしくいいますならば物心両面の楽土に住まわせること、物心ともに何不足なき常寂光土を、この世界に建設することが、仏の日夜の願いであり、悩みでもあります。
友に何かあると、飛んでいって励まし、祈り、動き、家族もおよばぬほどの真心で面倒をみる。くる日も、くる日も、友の幸福を願い、何の見返りも求めず献身的な行動を続ける学会員。人々はとても信じられないのである。