結論的にいうならば、吾人がいま、もつところの肉体そのものが、子供のときより老人にいたるまで、ある傾向にしたがって変化するごとく、われらの今日の肉体と精神が永遠に変化しつつ実在することが、法報応三身の常住で無始無終の生命観である。
まずわれらの肉体の変化について観察してみよう。われわれは一瞬一瞬に、肉体的にも精神的にも変化しつつ、運命のコースをたどっている。精神的な問題と運命の問題は別にして、肉体の問題のみを論ずるならば、一瞬一瞬に
細胞の増衰が行なわれて、そして七年間もするならば生物学上、目の玉のしんから骨の髄の細胞まで一新するのである。
この肉体の変化は、精神とか運命とかを根本として変化したものではなくして、われらの生命自体の働きによって変化してきたものである。その生命というものに、一貫した傾向を見ることができる。もし生命すなわち変化させる根本の原動力に定まった一つの傾向および本質がないとするならば、七年間の変化のうちに、長い指が短くなったり、目が小さくなったり、形が変わって鼻の低いのが高くなったりするはずなのに、
だいたい赤ん坊のときを基準とした細胞の増衰にすぎない。しかも、三十のときに何かの事件を起こしたとして、
それに対する責任は法律に関するとせぬとにかかわらず、四十になっても五十になっても、負わされていることは事実である。たんに肉体論からいうならば、三十七になれば、ぜんぜん別な肉体になっている。
七年前の責任を負う必要がなくなるではないか。忘れたということよりは、没交渉になってよいはずである。
いかんとなれば、脳の細胞も一変しているからである。しかるにその責任はぜんぜん別個になった肉体がこれを負い、また、その責任を感ずるのである。これは生命の連続は肉体と精神活動とを同じく、その連続に関連をもたしているからである。
生命とは心肉(しんにく)不ニにして肉体にもあらず心にもあらず、しこうして、肉体と精神にたえず反応を与えるものである。目に見えないで存在し、しこうして、目に見える肉体と精神と運命とに強くはっきりとにじみ出るものである。
われわれの生命は永遠であるとすれば、この世の中で死んで、またつぎの世で生命の活動がなければならぬ。
他の宗教では、次の世の生命活動を、西方の浄土世界とか天上界とかいうような架空の世界観をつくって、そこで生きているという。
これは法身論の生命観であって、事実の生命観ではない。つぎの世に生まれてくる世界は、われらが生活していると同様の娑婆世界である。
しからば、世間にいう生まれ変わってくるという、あのことかと思うであろう。事実はごく似たものであるが、生まれ変わるとなれば、ぜんぜん別個の人間とも考えられる。しかし、ぜんぜん別個ではありえないのである。では同じ人かというに、同じ人でもないのである。
あたかも、七歳のAなる人と四十歳のAとが、同一なりと断ずるがごときものなのである。今世のAと来世のAとは、
生命の連続においては同一生命の連続であって、肉体にもせよ精神にもせよ運命にもせよ、今世のそのものではないことはもちろんである。それは七歳のAの場合と四十歳のAの場合と同様である。
七歳のAが四十歳にいたるまで生命の連続であると同様に、肉体も精神も運命も、変化の連続をなしたごとく、今世の生命が、来世の生命にいたるとしても、今世の肉体・精神・運命が来世へと変化の連続をなすことはとうぜんである。
ここに大きな疑問が一つ生ずる。死んで火で焼いて粉にして、なくなった肉体が、死後までその肉体の連続であるということは、あり得ないではないかということである。
そこで、肉体にもせよ精神にもせよ、目に見ることのできない、しかも厳然たる存在の生命の反映であると、
さきに述べたことを記憶より呼び覚ましてもらいたい。さて、その前に、いかような状態において生命が来世に連続するかという問題を述べてみよう。
われらの生命が大宇宙の生命へ溶け込むのであって、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である。この大宇宙の生命体へ溶け込んだわれわれの生命は、どこにもありようがない。
大宇宙の生命それ自体である。これを「空(くう)」というのである。「空」とは存在するといえば、その存在を確かめることができない、存在せぬとすれば存在として現れてくるという実体をさしているのである。「有る」「無い」という二つの概念以外の概念である。
たとえていえば「あなたは怒るという性分をもっていますか」と問われた時に「持っております」と答えたとする。それなら「その性分を現して見せてください」といわれても、現わしようがないから「無い」と同様である。「ありません」と答えたとしても、縁にふれて、怒るという性分が現れてくる。かかる状態の存在を「空」というのである。
われらの死後の生命も、この空の状態の存在である。されば、縁にふれて五十年、百年または一年後にふたたびこの娑婆世界に、前の生命の連続として出現してくるのである。さて、その生まれ出た肉体は、過去の生存、過去の死の状態をとおして連続してきた生命を基として、宇宙の物質をもって構成されてくる。
時間的の差異はあったとしても生命が連続である以上、肉体も精神も運命も、過去世の生存の連続であると断ずることができるのである。あたかも、碁を打つ人が一日打って半局面しか打ちきれない。そして、あすにしようということになって碁石をバラバラにしてしまって、もとのように箱に納めてしまう。
次の日、ふたりが、また碁盤を囲んできのう打ち終わったところまで、きのうと同様に、白黒と碁石を配置する。そして、きのうのつづきを打っていくようなものである。
生命が過去の傾向をおびて世に出現したとすれば、その傾向に対応して宇宙より物質を集めて肉体を形成する。ゆえに過去世の連続とみなす以外にないのである。このように、現在生存するわれらは死という条件によって大宇宙の生命へと溶け込み、空の状態において業を感じつつ変化して、なんらかの機縁によって、また生命体として発現する。このように、死しては生まれ生まれては死に、永遠に連続するのが生命の本質である。