法悟空 内田健一郎 画 (6390)
「歓喜の歌」は、人間の讃歌、自由の讃歌として世界で歌われてきた。
一九八九年(平成元年)、チェコスロバキアで、“ビロード革命”によって、流血の惨事を引き起こすことなく、共産党独裁にピリオドが打たれ、十二月十四日、首都プラハで革命を祝賀する演奏会が行われた。そこで演奏、合唱されたのがベートーベンの第九であり、「歓喜の歌」であった。
演奏が終わると、場内は爆発的な大拍手に包まれた。鳴りやまぬ拍手のなか、新大統領となるバツラフ・ハベルが舞台に上がると、「ハベル! ハベル!」の大合唱が起こった。第九は、民主の喜びの表現であった。
また、十二月二十三日と二十五日には、壁が崩壊したベルリンで、東西ドイツの融和を祝ってコンサートが開催された。ここで演奏されたのも第九であった。
しかも、バイエルン放送交響楽団を中心に東西両ドイツ、さらに、戦後、東西に分割されるまでベルリンを管理していたアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の楽団からなる混成オーケストラを編成しての演奏であった。
まさに、自由と融和の勝利の象徴が、第九であり、「歓喜の歌」であったのである。
宗門が、この歌の世界的な普遍性、文化性を無視して、ドイツ語の合唱に、「外道礼讃」とクレームをつけたことに対して、外部の識者らが次々と声をあげた。
ニーチェ研究などで知られる哲学者の河端春雄・芝浦工業大学教授(当時)は、「人間精神の普遍的な昇華がもたらす芸術を、無理やり宗教のカテゴリーに当てはめ、邪教徒をつくり断罪する、あの魔女狩りにも似た宗教的独断の表れである」(注)と指摘する。
そして、シラーがいう「神々」の意味は、もとより「一神教であるキリスト教の神を称える」ものではなく、古代ギリシャの神に託して、「人間の内なる精神の極致、理想」を述べたものである。新しい思想も、その時代の既存の“何か”に託して表現する以外にないからだ――と語っている。
小説『新・人間革命』の引用文献
注 「聖教新聞」1991年1月24日付