本当に強情な信心を貫いて死んだ場合は、その人は勝ったのです。
自分が病気で苦しみながら、最後まで広布のために祈り
友のために祈り、周囲の人を励ましながら亡くなった人も、
いっぱいいます。そういう生き方、死に方が、どれほど多くの人に
勇気を与えたかわからない。すぐに健康な体で生まれてきます。
ある少女は、11歳の時に脳腫瘍になり、14歳で亡くなった。
しかし病院の大人の人たちにも「元気を分けてあげる」くらい
快活に振る舞っていた。病気が、どんなに苦しかったかわからない。
しかし、彼女は題目をあげぬいて、皆を励ましていった。
そして、最後には、お見舞いに来ていた人に、こう言っていた。
「私ね、病気なんて、どうなってもいいんだ。
自分のこと祈るのなんか、もう、やめたの。
私よりも不幸な人が大勢いるんだもの。その人が、この信心を
やって、一日も早く御本尊の素晴らしさがわかるように
一生懸命、祈るんだ。」
そして、家族にも、にこやかに、こう語ったそうだ。
「もし、この病気、お父さんがなったら、どうする?困るでしょ!
お母さんがなっても困るし、弟がなったら乗り越えられない。
だから、私がなってよかったんだよ。」
「私はきっと生まれる前に、こうなることを約束してきたんだと思うの。
だから、私を知っている人たちが、私の姿を通して何かを感じて
くれたら、それで幸せ。」
私も少女の闘病を聞いて「バラの花」を贈った。
「福光」としたためて扇を贈ったり、あやめが群れ咲く風景を撮った写真も
贈った。本当に喜んでくれたようです。
少女が周囲の人に残した言葉は「信心とは信じて信じぬくものよ。」
の一言だった。
彼女は、その一言を、自分の生き方で示しきったのです。
14年半の生涯に千人を超えるであろう人々に妙法の偉大さを
少女は語り続けたのです。
彼女は勝ったのです。私はそう思う。全部、意味があった。
いな、自分の戦いで、自分の苦悩に意味を与えた。
「前世で約束してきた」という言葉があったが「願兼於業」といって
「あえて願って苦しみの姿で生まれ、その苦しみと戦い、打ち勝つ姿を
見せて、人々に仏法の力を教える」生き方がある。菩薩の生き方です。
信仰者が初めから全てに恵まれていたならば、人々は仏法の凄さを
知ることができない。だから、あえて悩みの姿で生まれてきて
「人間革命」してみせるのです。