本日の御書

本日の御書 罰をもって徳を惟うに、我が門人等は「福十号に過ぐ」疑いなきものなり(四信五品抄p342 n270)

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【御書本文】
罰をもって徳を惟うに、我が門人等は「福十号に過ぐ」疑いなきものなり(四信五品抄p342 n270)

【通解】
一国の仏罰の厳しさをもって、われらの功徳の大きさを推察すれば、わが門下の人々が「十の尊称をもっておられる仏を供養するよりも、はるかに勝る福徳」を得ることは疑いない。

【先生の指導から】
この「十号」とは、仏を讃えた十種の称号のことである。
御本尊の向かって左の御肩には、「有供養者福過十号」(供養すること有らん者は福十号に過ぎん)厳然と、お認めである。十号の仏に供養する福徳よりも、御本尊を持ち、広布に戦うわれわれが得る福徳のほうが、はるかに大きい。
さらに申し上げれば、究極的には、御本尊を正しく信ずる者は、十号の福徳を具える仏界の生命を現すことができるのである。
十号の第一は、「如来」。
これは、真如、すなわち究極の真理から現れ来る者という意味である。
最高の智慧、真理を体現し、瞬間瞬間、生き生きとこれを発揮して、民衆のために尽くす。最高の価値を創造していく躍動の前進をリードする。
第二は「応供(おうぐ)」。
世の尊敬や供養を受けるにふさわしい存在という意味である。自然のうちに、人々を感化、善導し、皆に功徳を受けさせることができる人格である。
第三は「正遍知(しょうへんち)」。
あらゆることを正しく知り、正しく判断できる智慧を持つ者である。したがって、その智慧をあまねく人々に行きわたらせていく“知性の光”となるのである。
第四は、「明行足(みょうぎょうそく)」。
英知と行動をあわせ持つ。知勇兼備の模範の指導者といえよう。
第五は「善逝(ぜんぜい)」。
煩悩を乗り越えて、仏の境地に達することである。濁った時代、混乱の社会を打ち破って、新しい時代へ、つねに勝利と発展を切り開いていく。そうした原動力といえようか。
第六は「世間解(せけんげ)」。
世間の情勢、時代の動向などを知り尽くした人のことで、的確に社会をリードしゆく指導力に通じよう。
第七は「無上士(むじょうし)」。
文字どおり、この上ない「最上最高の人」である。
第八は「調御丈夫(じょうごじょうぶ)」。
どんな人をも善導し、いかなる悪の働きも調伏できる力を持つ者である。それは、一切衆生を薫陶する、人間教育の真髄を体現した存在である。
第九は「天人師(てんにんし)」。
諸天や人々を教え導く存在である。あらゆる人々を励ましていく“精神的指導者”と考えることもできよう。
最後の第十は、「仏世尊(ぶつせそん)」である。
「仏」は、この世でもっとも賢く目覚めている人であり、他を目覚めさせる人である。また、あらゆる人から尊敬されるがゆえに「世尊」という。
仏は、これら十種の威徳をすべて持っているのである。さらにまた仏は、この世でもっとも強く、すべてを勝ちぬいていく勇者であるがゆえに、「世雄」という異名もある。
智慧と力と福徳を持ち、進みゆくわが創価学会は、そして創価学会員は、永遠に勝利者である。永遠に仏の生命を涌現していけるのである。