彼は自然の思いのうちに、いつか虚空にあった。数かぎりない、六万恒河沙の大衆の中にあって、金色燦然たる大御本尊に向かって合掌している、彼自身を発見したのである。
夢でもない、幻でもなかった。それは、数秒であったようにも、数分であったようにも、また数時間であったようにも思われた。はじめて知った現実であった。喜悦が全身を走り、これは嘘ではない、おれは今ここにいる!と、自分で自分に叫ぼうとした。その時、またも、狭い独房の中で、朝日を浴びて坐っている我が身を感じたのである。
彼は一瞬、茫然となった。両眼からは熱い涙が溢れてならなかった。彼は眼鏡をはずして、タオルで抑えたが、堰を切った涙はとめどもなかった。おののく歓喜に全生命をふるわせていた。
彼は涙のなかで、「霊山一会、儼然未散(げんねんみさん)」という言葉を、ありありと身で読んだのである。彼は何を見、何を知ったというのであろう。
此の三大秘法は二千余年の当初(そのかみ)、地涌千界の上首として、日蓮慥(たし)かに教主大覚世尊より口決相承せしなり…
彼は狂喜した。彼はこれまで、日蓮大聖人の三大秘法稟承事(ぼんじょうじ)を拝読するごとに、いつもこの「口決相承」とは何か、と頭を悩ませてきた。だがここに、なにも不思議でないことを、ついに知ったのである。
あの六万恒河沙の中の大衆の一人は、この私であった。まさしく上首は、日蓮大聖人であったはずだ。なんという荘厳にして、鮮明な、久遠の儀式であったことか。してみれば、おれは確かに地涌の菩薩であったのだ!
彼は、狭い部屋を、ぐるぐる歩きまわっていた。そして机に戻ると、ふたたび涌出品から読みはじめたのである。
彼は机をたたきながら、「この通りだ。このとおりだ」と、深く頷いた。
さらに寿量品に進み、つぎつぎと八品を読みすすんで、属累品にいたった。各品の文字は、急に親しさに溢れ、訴えてきた。まるで、昔書いた手帳を読みかえす時のように、曖昧であった意味が、いまは明確にくみとれるのである。
彼は、わが眼を疑った。だが、法華経を、このように理解するにいたった我が心の不思議さはいささかも疑わなかった。
激しい、深い感動のなかで、彼は我が心に言った。
よろしい、これでおれの一生は決まった。きょうの日を忘れまい。この尊い大法を流布して、おれは生涯を終わるのだ!
彼は同時に、わが使命も自覚したのである。