其の身は
有に非ず亦た無に非ず
因に非ず縁に非ず自他に非ず
方に非ず円に非ず短長に非ず
出に非ず没に非ず生滅に非ず
造に非ず起に非ず為作に非ず
坐に非ず臥に非ず行往に非ず
動に非ず転に非ず閑静に非ず
進に非ず退に非ず安危に非ず
是に非ず非に非ず得失に非ず
彼に非ず此に非ず去来に非ず
青に非ず黄に非ず赤白に非ず
紅に非ず紫種種の色に非ず
彼は唱題を重ねていった。そして、ただひたすらに、その実体に迫っていた。三十四の「非」を一つ一つ思いうかべながら、その三十四の否定のうえに、なおかつ厳として存在する、その実体はいったい何か、と深い深い思索にはいっていた。時間の経過も意識にない。いま、どこにいるかも忘れてしまっていた。
彼は突然、あっと息をのんだ。「生命」という言葉が、脳裡にひらめいたのである。
彼はその一瞬、不可解な十二行を読みきった。
ここの「其の身」とは、まさしく「生命」のことではないか。知ってみれば、なんの不可解なことがあるものか。仏とは生命のことなんだ!
彼は立ちあがった。独房の寒さも忘れ去っていた。時間も分らなかった。ただ、太い息を吐き、頬を紅潮させ、眼は輝き、底しれぬ喜悦にむせびながら、動きだしたのであった。
仏とは、生命なんだ!生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!
戸田城聖のこの時の展開の一瞬は、将来、世界の哲学を変貌せしむるに足る、一瞬であったといってよい。それは、歳月の急速な流れと共に、やがて明らかにされていくにちがいない。
彼は、仏法が見事に現代にもなお溌剌として生きていることを知り、それによって、近代科学に優に伍して遜色のないものであると確信した。そして、仏法に鮮明な現代的性格と理解とを与えたのである。いや、そればかりではない。日蓮大聖人の法理を、あらゆる古今の哲学のうえに位置せしめた、記念すべき強力な発条(ばね)であったというべきではなかろうか。
法理には「生命」という直截な、なまの言葉はない。それを戸田は、不可解な十二行に秘沈されてきたものが、じつは真の生命それ自体であることを、つきとめたのである。
仏というものの本体が解った。三世にわたる生命の不可思議な本体が、その向こうに遠く、はっきりと輪郭を現してきた思いがしたのである。
その後も、彼はさらに法華経を読みすすめていった。いくつもの難解な章句も克服していった。そして、獄中での春が去り、夏が去り、秋も終わろうとしていた。この間のたゆまない思索と精進によって、少なくとも文々句々については、ほとんど理解できるまでになっていた。だが、釈迦はいったい法華経二十八品で、何を説きあかしたかったのであろう、という根本的な疑問がおきたのである。彼を苦しめた第二の問題であった。
一代聖教(しょうきょう)の肝要が、法華経であるならば、その法華経の真髄とは何か。それは、とりもなおさず、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経であり、末法に開顕された、十界互具の御本尊に帰するはずである。
彼は、このような理論的な帰結は、すでに充分理解していた。だがそれを、動かすことのできない実感として、把握するにいたっていないことを、思い知らなければならなかった。
十一月中旬、元旦から決意した唱題は、すでに二百万遍になろうとしていた。
そのようなある朝、彼は小窓から射しこむ朝日を浴びて、澄みきった空に、澄みきった声で、朗々と題目をあげていた。
是の諸の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声(おんじょう)を聞いて、下より発来(ほつらい)せり。一一の菩薩、皆是れ、大衆(だいしゅ)の唱導の首なり。各六万恒河沙(ごうがしゃ)等の眷属を将(ひき)いたり。況や五万、四万、三万、二万、一万恒河沙等の眷属を将いたる者をや。況や…