御本尊への「信」を貫き通した人は晴れ晴れとした十方の世界を見下ろすような境涯となる。喜びでいっぱいの死である。歓喜極まりない感動の死なのである。死してもまた「楽」「我」「常」の宇宙の次元、仏界の次元に冥合していくのである。人生は瞬く間に終わり、肉体は大宇宙に溶け込んで一体化します。この物理的、科学的事実に立脚しているからこそ、仏法は正しいのです。
死後は宇宙そのものが肉体になると考えていいので、一切衆生の喜怒哀楽を、全て我が身で感じることになるはずです。
ゆえに成仏しても、全く地獄を感じないことはないはずです。そもそも、自分さえ苦しまなければいい仏などいません。
南無妙法蓮華経如来は、全宇宙の宿業を浄化するため、この世に地涌の菩薩を派遣します。それが我々末法の人類です。
地涌の菩薩は、南無妙法蓮華経如来の「細胞」と考えることもできます。細胞は生命体の一部であると同時に、生命体そのものでもあります。
ゆえに、大聖人は上行菩薩であると同時に南無妙法蓮華経如来なのです。成仏していれば、南無妙法蓮華経を唱え弘めるため、臨終後もすぐさま人間に生まれてきます。
地涌の菩薩は、生まれてくる前に、誰がどの宿業を担当するか、役割分担を行います。なので、宿業は人によって様々なのです。
より信心強情であるほど、多くの難を引き受けるため、波乱万丈の人生となります。
しかし、仏はその全てが浄化できると分かっているので、表面は苦難ばかりに見えても、根底では安心していられるのです。
臨終に際しては、大宇宙の宿業を浄化できた満足、後継の青年リーダーを育て上げた満足に包まれ、歓喜のうちに大宇宙に還っていきます。
どんなに教学を学んでも、知識は死ねば失われます。成仏には「理解」ではなく「体得」が必要なのです。