御本尊を拝するということは、 全宇宙を見わたし、見おろしていくようなものです。自分自身の苦しんでいる生命をも見おろしていける自分になっていく。
「随喜」と言っても、悩みがなくなるのではない。悩みがあるから題目が唱えられる。題目を唱えるから、生命力がわく。苦しみがあるから喜びがある。〝幸せだけの幸せ〟はありえない。〝喜びだけの喜び〟はない。
「仏法は勝負」なのだから、 一生涯、戦いです。戦い続けられる強き強き自分をつくるのです。
鍛えあげられた、その強き境涯が本当の永遠性の「随喜」です。
信心があれば、何があろうと、 生命の根底が歓喜になる。希望になる。確信になる。
そして、勇んで、悩める人のもとへ飛び込んでいって、自他ともに「随喜」の当体となっていけるのです。