池田先生ご指導

煩悩は仏の智慧としての般若に、悪業の連鎖を形づくってきた業は仏の自在無礙の解脱の働きに、そして苦に満ちた凡夫の生命は法身という究極の真理の当体へと、それぞれあらわれるのである。

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たんに現世のみでなく、自己自身の過去の謗法の罪が生命深く染みついていて、それが私たちの人生の幸・不幸を左右しているのである。
正法に染まるか謗法に染まるか、三世にわたる生命の法則は、たんに個人の上にあらわれるのみでなく、「家眷属にも及ぶのが仏法の厳しさと偉大さである。
法華経においては瞬時に三道を三徳に転じると説いている。


煩悩は仏の智慧としての般若に、悪業の連鎖を形づくってきた業は仏の自在無礙の解脱の働きに、そして苦に満ちた凡夫の生命は法身という究極の真理の当体へと、それぞれあらわれるのである。


なかんずく偉大な妙法を信じたとき、信は慧へと代わり、そこから口に妙法を唱え、妙法を賛嘆する善の口業となっていく。妙法を弘教することは、善の身業であり、身口意にわたって善の業を行なうのである。そこにこそ解脱が得られる。三道の業は解脱と転換されるのである。