池田先生ご指導

妙法の大法則に則った信心は、御聖訓にあるごとく表面的にはどうあれ、生命の深層では宿命の転換を進め、功徳の因を確実に刻んでいるのである。

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この宇宙には、生きている人、また死んだ人の「我」のもつ、さまざまな一念が電波のごとく入り乱れて働いている。
さらに、各人にあっては宿命という問題がある。
そうした複雑な因果関係や多次元の要因からいって、思いどおりに、すぐに願いが叶わないとしても、それは無理のないことである。
また、妙法の功徳は冥益であり、短期ではなく、生涯を通してみていかねばならない。
われわれ凡夫は、どうしても性急な結論を求め、近視眼的、皮相的な判断となりがちである。
しかし、仏は三世を通暁されている。
ゆえに、いま、その願いが叶わないことがあっても、長い目でみれば結果的にはその人のためになり、よい方向に進んでいくのである。
それは、われわれの眼からみて祈りが叶わないと思うだけで、仏の眼からは、じつは本質的にいって叶っているのである。
三世にわたる生命の因果の法則は、凡眼には推し量りがたい。
妙法の大法則に則った信心は、御聖訓にあるごとく表面的にはどうあれ、生命の深層では宿命の転換を進め、功徳の因を確実に刻んでいるのである。
それがわからないからといって、御本尊の功力を疑う弱い信心であってはいけない。
どこまでも「無疑自信」の信心の姿勢を忘れてはならないと申し上げておきたい。