勤行で方便晶、寿量晶を読諦するのは、方便・寿量晶は、八万法蔵といわれる釈尊の説法の最高峰の法門であり、全経典の宝であり、魂ともいうべき経文であり、そこには「空仮中の三諦」「法報応の三身」「三世常住の生命」「十界論」「煩悩即菩提」の法理など、宇宙と生命にわたるいっさいの法理が説き明かされているからである。
ゆえに、日々の方便・寿量晶の読詞にはその内容を知ると知らざるとにかかわらず、意識するにせよ無意識にせよ、自身と宇宙にわたるすべての法理を確認し躍動せしめていく儀式になっていると、私には思えてならない。
すなわち、大御本尊の妙用によってわが胸中の法理と宇宙の法理との冥合がなされ、交差の確認ともなり、凡夫であるわれらの生命にすばらしき光を当てていく儀式ではなかろうか。
そして読経のあとの唱題こそ、それらの法理を最大限に躍動させ、絢爛と開花させ、放射させることができる根本法であり、その力用となっていくわけである。
すなわち、すべての根本は南無妙法蓮華経という「題目」にあることはいうまでもない。
したがって、まったく正しき日々、まったく確実な日々、まったく無限にわたるリズミカルな生命と生活をしゆくためには、この勤行と唱題をおいてないのである。
これこそ、皆さまが実行し、実践し、体得し、体験した現実の姿ではなかろうか。