池田先生ご指導

大御本尊に南無妙法蓮華経と唱えたときに、生命(わが存在)の奥底から、心を突き抜けて顕現してくる仏界の生命こそ、得体の知れない心を導き、コントロールしていく力となっていくのです。

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人間の心は外界の縁にふれていかようにも変化、動揺する。
仏法では、その変化の有様を「一人一日の中に八億四千念」と説いている。八億四千念とは、また、想像を絶する数ではないか。これは何を意味しているのでしょうか。
一人一人にとり、もっとも自分に身近なはずの心が、じつは得体の知れない怪物であることを教えてくれているのです。
そうなると「自分の心」と確信をもって断言できるというのでしょうか。かりに、ある瞬間の心を、自分の心と断言しても、それはまさに氷山の一角にすぎず、残りの無数の心は大海のなかに没していることになるはずです。
ここから「自分の心」などというものは一種の幻にすぎず、そんな幻に捉われず、ただひたすら、仏法の発見した永遠不変の真理(法)に則っていきるべきことを仏法は教えています。
心は千変万化の怪物といってよいのですが、しかしながら。そのやっかいな心を通してしか、仏法の真理-生命の法則-に到達できないところに、仏道修行の困難さがあるのです。冒頭の一節は、仏法の真理のもとに、千変万化の心をコントロールしてもごとに仏道を成就せよとの凡夫への戒めとすることができます。
「心の師となる」、八億四千という無数の心を導き、コントロールする師となれ、との教えです。誰が師となるのでしょうか。私たちにとっては、本門戒壇の大御本尊であり、末法の御本仏・日蓮大聖人の教えであることはいうまでもありません。

大御本尊に南無妙法蓮華経と唱えたときに、生命(わが存在)の奥底から、心を突き抜けて顕現してくる仏界の生命こそ、得体の知れない心を導き、コントロールしていく力となっていくのです。そして、日蓮大聖人の御書にちりばめられた珠玉のごとき指導や御金言を拝しつつ、わが心を、御本尊の生命にふれさせ、その絶対の確信と獅子吼により蘇生させていく。この絶え間なき実践のなかで、私たち凡夫の心はしだいに縁に紛動させぬ不動の境涯を獲得していくことができます。しかしながら、この仏道修行の過程にあっても「心を師」とする誘惑がしのびこむのも、また、凡夫の悲しさであるといえるでしょう。
この誘惑との戦いこそがある意味では仏道修行の肝要ともいえるのです。また、この観点に立てば求道というのも、つねに、自分の心を近づけようとすることにほかになりません。また、つぎのようにもいえるのではないでしょうか。
「心を師」とする姿は、無限の道程ともいうべき仏道修行の途中で、自己満足し、求道心が止まった状態であり、それは増上慢に通ずる姿です。
これに対して、「心の師」となっていくとは、いつも現在の自分を否定するべき自分と捉え、より一歩高い自分を目指す謙虚な心であり、求道の炎を絶やさない姿といえるでしょう。そして「心の師」になっていこうと、絶えず求道していく信心のみなぎった生命には、おのずから「心を師」にしようとする誘惑をも打破していく力が備わってくるのです。こうして「心の師」たらんとする求道心っと「心を師」にしようとする衝動・誘惑との葛藤、相克を勝ち抜くなかに、豊かな高い境涯が確立されてくるのです。
まさに仏道を行ずる者にとって、自己の境涯を高めゆく道程は、緊張感と充実感に富んだ壮大なドラマというべきでしょう。